昨日書いたことと関連して。岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(作品社、1992)では、シュヴァルの創作の価値を「おのれの生の欲求だけに従うこと」(p.243)に見ていた。「彼らは、この日常の現実が生きるに価しないならば、敢然として、もうひとつの現実──その中でなら彼らが真に生きることのできる、この現実以上の密度と強度と鮮やかな色彩と輝きとを持つもうひとつの現実を、わが手で作り出そうとする」(p.237)。そしてそうであったからこそ、むしろ(現代芸術においては失われた)「民衆の感性と想像力の土壌の中に深々と根を下ろすことができた」(p.243)とされる。つまり、

シュヴァルの建築は、どこにも結びつかず、全く孤立しているかに見える。しかしこれはあくまで建築史の枠内でのことだ。もしそのような枠をはずすならば、彼は、専門の大工や石工を雇わずに自らの手で家を建てた村の人々の伝統、レヴィ=ストロースの言う何でも屋(ブリコルール)の伝統へ、もっとも身近には、河原の石を集めて家を作ったロマンの町の人々の伝統へとつながってゆくだろう。(pp.242-243)

以上の著者の主張には、納得できるような気もすればできないような気もする。たしかに現代の多くの創作活動において、「つくる」と「生きる」とが乖離している状況には薄ら寒いものを感じる。けれども日常を捨象した(とされる)シュヴァルたちの創作と、日常に根ざしていたセルフビルドやブリコラージュの伝統とを、はたして連続させてよいのだろうか。躍動する生は、あるところまでは日常と共にあるけれど(生き生きした日常というような)、あるところからは無軌道に日常を超越していく。そのあり方の違いは無視できないのではないだろうか。
「私たちが暮らしている何でもない日常生活が、じつは私たちを存在させてくれているのです」という多木浩二の言葉は、こうした疑問を考えるヒントになるかもしれない。

考えてみると人間を構成しているのは、大変な思想であったり、芸術であったりするよりもまず日常生活なのです。日常生活こそが人間の文化をつくりあげているひとつの技なのです。カントはこれを「クンスト」Kunstと呼んでいます。「クンスト」というのは技とも読めるし、芸術とも言えます。この「クンスト」を守り抜けるかどうかが、この戦争化した世界のなかでなによりも大切なのです。芸術文化としての「クンスト」と、日常生活の技としての「クンスト」の両方を守り抜いていかないと希望は生まれません。
───多木浩二『映像の歴史哲学』今福龍太編、みすず書房、2013、p.191

この講義録も含めて、多木浩二は2000年前後、アウシュヴィッツの生き残りであるプリーモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日新聞社、2000)を引きながら、たびたび日常の重要性を主張している(他に『戦争論岩波新書、1999/『20世紀の精神──書物の伝えるもの』平凡社新書、2001/「日常性と世界性──坂本一成の「House SA」と「Hut T」」『ユリイカ』2001年9月号など)。以下その一例。

つまり坂本一成の建築がわれわれの関心をかき立てるのは、日常生活と「世界のなかで生きること」の関係を認識させるからである。私には、人間は日常生活に慣れすぎて、そのもっとも深く重要な意味を忘却しているように思える。しかし日常とはそんなものであろうか? 極端な例ではあるが、イタリアの作家プリーモ・レヴィの最後の本のなかに、日常性の重要さを語った部分がある。彼はアウシュヴィッツでの経験を語るのだ。衣服や靴など、日常的なすべてのものを剥ぎとられたとき、彼の存在は完全に崩壊してしまった、と書いている。
───多木浩二「日常性と世界性──坂本一成の「House SA」と「Hut T」」『ユリイカ』2001年9月号(別冊『多木浩二と建築』収録)

その『溺れるものと救われるもの』を数年前に読んだとき、いくつか印象に残ったことのひとつに、レーヴィによるニーチェの哲学への批判がある。「生の哲学」として現在でも熱心に読まれているように見えるニーチェの哲学が、ナチズムの思想的根拠となったという歴史的な結果としてではなく、それそのものとして、レーヴィに嫌悪感を与えている。それはおそらく、生と日常をめぐって僕が『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』に抱くわずかな違和感と関わりがある。以下そのレーヴィによるニーチェ批判。

ニーチェも、ヒトラーも、ローゼンベルクも、超人の神話を唱えて、自分自身や部下たちを酔わせた時は、狂ってはいなかった。超人には、その教条主義的な、生まれつきの優越性が認められて、すべてが許されることとなった。しかしながら、教師も生徒も、彼らの道徳が、いつの時代、いつの文明にも共通であった道徳から少しずつ離れて行くにつれて、彼ら全員が現実からどんどん離れて行った、という事実は熟慮に値する。その道徳とは私たち人類の遺産の一部であり、最終的には承認されるべきものだったのだ。
理性は終焉し、弟子たちは無益な残忍さの実践という点で、師匠を大きくしのいでしまった(裏切りだった!)。ニーチェ箴言に私は強い嫌悪感をおぼえる。そこには私が好む考えとは正反対の主張しかない。彼の神託的な調子は煩わしい。しかしそこには他人を苦しめたいという欲望は現れてないように思える。ほとんどすべてのページに無関心が見られる。しかし「他人の不幸を喜ぶ気持ち(シャーデンフロイデ)」は現れていないし、まして他人を用意周到に傷つける喜びなどは見られない。下層民、奇形のものたち(ウンゲシュタルテン)、高貴な生まれでないものたちの苦しみは、選ばれたものたちの王国到来のために支払われるべき代償である。これはより小さな悪であるが、悪であることには変わりない。それ自体は望ましいものではないのだ。
───プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』竹山博英訳、朝日新聞社、2000、pp121-122

以下おまけ。非常に私的でネガティヴな表現でありながら、無垢な生に対しての道徳的な批判意識が僕には感じられる。

死ぬほど楽しい 毎日なんて
まっぴらゴメンだよ
暗い顔して 2人でいっしょに
雲でも見ていたい
夕日の中で
夕日の中で
───Fishmans「DAYDREAM」より(作詞・作曲=佐藤伸治