岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(作品社、1992)を読んだ。例の講義の課題図書の1冊にあげているので(3月27日)、出題者として読まないわけにはいかない。たまたま初回の講義で紹介したT・S・エリオットの「伝統と個人の才能」(1919)が、本の最後の章で引き合いに出されていた。以下の部分を引用し(実際の引用文は吉田健一訳)、それと対比的に、シュヴァルおよび著者の関心対象であるアンリ・ルソー、レーモン・ルーセルが論じられている。

そしてこの歴史的感覚には、過去がすぎ去ったというばかりでなくそれが現在するということの知覚が含まれるのであり、またこの感覚をもつ人は、じぶんの世代を骨髄のなかに感ずるのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体が──またそのうちに含まれる自国の文学の全体が──ひとつの同時的存在をもち、ひとつの同時的な秩序を構成しているという感じをもって筆をとらざるをえなくなるのである。この歴史的感覚は、時間的なものばかりでなく超時間的なものに対する感覚であり、また時間的なものと超時間的なものとの同時的な感覚であって、これが作家を伝統的ならしめるものである。そしてこれは、同時にまた、時の流れのうちにおかれた作家の位置、つまりその作家自身の現代性というものをきわめて鋭敏に意識させるものでもあるのである。
───T・S・エリオット「伝統と個人の才能」深瀬基寛訳、『エリオット全集5』中央公論社、1971、p.7

そして引用のあとに著者の文が以下のように続く。

このような歴史的な感覚、或いは批評意識は、詩に限らず、現代芸術に携る人間にとって必須のものである。いや、現代芸術は、こうした感覚や意識そのものだとさえ言うことができる。
一方でこうした感覚や意識が現代芸術の不毛の元凶であることも、多くの人々が自覚している。この二律背反からいかにして抜け出すかが現代芸術の重い課題となっていることも、今や久しい常識である。
[…]
素朴派の画家たちは、エリオットの言うような歴史的感覚も、批評意識も一切持ち合わせていない。それにもかかわらず──それだからこそ、と言うべきかもしれない──彼らは時代錯誤に陥ることなく、ひとつの新鮮な世界を提出していることはたしかである。しかしアンリ・ルソーをのぞいて、彼らの作品が、現代芸術の苦闘に見合うだけの真の現実性を獲得しているかどうかは疑わしい。なるほど彼らは、その色彩においても、形においても、主題の扱いにおいても、それぞれがきわめて個性的である。だがその個性は、同時に彼らの限界ともなる。[…]だから最初の驚きを失い、その世界になじめばなじむほど、その作品は単調で、退屈なものに見えてくる。その点ルソーは違う。彼は、個性の枠などはやすやすと踏み破ってしまう。
───岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』作品社、1992、pp.207-208

しかしここにひとつ疑問がある。エリオットは「伝統と個人の才能」において、「歴史的感覚」のことを、「現代芸術に携る人間にとって必須のもの」というより、もっと保守的な立場から、「現代芸術に欠けているもの」という意味で重要視したのではないだろうか(個々の作家がそれぞれの作品をつくるのではなく、人類全体でひとつの大きな作品をつくっているという意識)。著者が「現代芸術の不毛の元凶」と書くような、過度のポジショニング的意識が抱える問題は理解できるとしても、それとエリオットが意図した「歴史的感覚」とは微妙にズレがあるように思える。たとえば著者は、ルーセル、ルソー、シュヴァルを「歴史的感覚や批評意識とは全く無縁だった」とし、「だから彼らは、新しい文学、新しい絵画、新しい建築をめざしたわけでは少しもなかった」(p.231)と書いている。けれどもおそらくエリオットが批判していたのも、同様に安易に「新しさ」をめざすことだった。そんな微妙なズレが生まれてしまうあたりが、今ひとつ著者の主張に乗れないところでもある。
著者が強調する「おのれの生の欲求だけに従うこと」(p.243)の価値は僕も分かっているつもりでいる。それはこのブログでこのまえ書いた擬洋風建築のことや(4月11日)、何度か言及しているアマチュアリズムの問題ともいくらか重なるだろう。しかしそのようなあり方の極北であるシュヴァルたちの創作を、他と比べて手放しで称賛する気にはならない。このことはきっと僕の個人的な好みにも依っていて、おそらくヤンソンの「客観」やロメールの「パンフォーカス」に惹かれるようなこと(4月22日)も関係しているのだと思う。
たとえば著者は、シュヴァルの理想宮がしばしば同時代のガウディの建築との親和性を指摘されることに対して、その類似はあくまで外面的なものであると述べている。

ガウディが、バルセロナ県建築専門学校を出たプロの建築家であり、資金を他に仰いで、教会、アパート、公園といった公共の建物、施設を設計したのに対し、理想宮はどこまでも私的な、手づくりの建築であった。さらにガウディの建築がどれほど幻想的に見えようとも、彼が設計という計画から出発しているのに反し、シュヴァルはいわば海図を持たない航海者であって、自分のヴィジョンの光だけに導かれていたのである。またガウディが、つねに設計者の範囲から出ようとせず、施工には自ら携らなかったのに対し、シュヴァルが材料の蒐集、運搬から施工まで一切を独力で成し遂げている点は、根本的な相違と言わねばならない。(pp.241-242)

ここでは両者の創作の前提が比べられているだけで、それぞれの実際の作品の質については比較されずにいるのだけど、この論理からすると、結局すべてのプロフェッショナルな建築家は、シュヴァルとは相容れないということになる。そしてもしそのような線引きが真実ならば、その状況においてシュヴァルを称賛することは一体どれほどの意味をもつだろうか。
本書のあとがきを除いた最後の一文は、「そして彼らの存在とその仕事は、このような土壌を失ってしまった現代芸術に対する、鋭い、無言の批判と化しているのである」というものだ。けれどもここで言われる「批判」は矛盾している。なぜならシュヴァルたちは、外部の批判などによらず「おのれの生の欲求だけに従う」からこそ独自の達成をしたとされるのであり、もしも現代芸術家がシュヴァルたちの創作を自分への批判として受け容れたなら、その瞬間、その行為自体によって、シュヴァルたちの「無垢な」創作のあり方を否定することになってしまう。だからシュヴァルたちの作品は、まさにアウトサイドのアンタッチャブルなものとして眺めるしかなくなる。
シュヴァルの理想宮はやはりものすごい(訪れたことはない)。と思うけれど、僕個人はもっと日常的で常識的で社会的で公共的なものを含むようなあり方の創作にリアリティを感じる。そもそも社会や日常から切り離され、ピュアに芸術ないしは生が特化されたような創作のあり方をよしとする認識は、それこそ近代的と言いうるのではないだろうか。僕も普段はたいていの場合においてシュヴァル的なものを肯定する立場にいるはずだけど、この本を読んだ感想としてはそういったことが浮かんでくる。