qpさんがまた作った写真集『浮雲』が届いた。今度はモノクロで、判型がA4判に小さくなったぶん、ページは32ページに増えている。送料込み900円。

上記リンク先のサンプルのとおり、いつものランダムなレイアウトはさらに際立ち、まるでパソコンのデスクトップ上で複数の画像ファイルを開いた状態のように、さまざまな写真がさまざまなサイズで重なっている。なかにはほとんどが上に載った写真に隠されていて、なにが写されているのか分からない写真もある。一方で、今回はモノクロなので、カラーのときよりもそれぞれの写真の境界が視認しづらい。
さてこれをどう捉えたものか。僕は建築でも映画でも小説でも、異なる時空間のものごとが複層的に同時に現れてくるような存在の捉え方・見せ方は好きなはずだし、qpさんの個々の写真にも魅力を感じている。それからいつもqpさんがブログに載せる写真の2点とか3点とかの組み合わせも面白いなと思っている。しかしなぜかこのレイアウトには響いてくるものがない。
qpさんはこのレイアウトをどのように決定したのだろうか。たぶん、頭のなかでイメージしたそのままではなくて、InDesignなりillustratorなりの画面上で、あれこれ写真を並び替えたり、拡大・縮小を繰り返したりして、調整していったのではないかと思う。僕は写真に関して、ちゃんとした作品のレベルでそういう作業をすることがないので、まったくの類推でしかないけれど、たとえば同じような作業を文章でしようとしても、なかなか難しい。僕はこのブログ程度の文章でも、すこし長いものだと、まず紙にペンで書かないと満足に書くことができない。そのあとパソコンに入力して多少調整はするものの、あまり全体の見通しがない段階でパソコンの作業に移ってしまうと、そこから書き足してまとめようとしても、どこかリアリティが希薄な文章になってしまう(ような気がする)。こうしたことは、建築設計の現場でもなんとなくありそうに思える。手描きで考えるかCADで考えるか、そのツールの違いによって、アウトプットも違ってくるのではないだろうか。とはいえ、文章にしても建築にしても、おそらく必ずしも手書き/手描きのほうがよいというわけでもないのだろう。人によっても目的によっても、よしあしは異なってくるのだと思う。
では『浮雲』の場合はどうなのだろうか。上で書いたとおり、僕としてはこのデザインに響いてくるものを感じられなかった。ただ、もしこれが紙の冊子ではなく、なんらかの方法で電子媒体で作品化されていたら、あるいは印象は異なっていたかもしれない。
たとえば3年くらい前にqpさんのブログに載せられた画像。

これらは明らかにデジタルの作品だけれども、手描きのものとはまた異なる、生き生きとした運動のリアリティを感じる。しかしこれをもし印刷して冊子にしたなら、そのリアリティは消えてしまうような気がする。これは認識論の範疇かもしれないけど、『浮雲』でもそれと同様のことが言えはしないだろうか。つまり、たとえ同じようなレイアウトでも、それを創作した電子媒体のままの状態で作品として見ることがあれば、紙媒体では感じられなかった響きがあったかもしれない。あるいは逆に、もしレイアウトをパソコンの画面上ではなく、写真のプリントや台紙を使って検討していたなら、紙の冊子での見え方も変わったかもしれない。
さすがにちょっと短絡的すぎる考えだろうか。でもたとえば、日本人には和服が似合う、日本料理には日本酒が合う、といったような、それが生みだされた土壌でこその調和というものはあるように思える。もちろん、和食にワインが合うというようなコラージュ的状況も起こりえるわけだけど、そのときにはまずその組み合わせに対して、それなりに積極的な意図や狙いが前提になっているだろう。『浮雲』の場合は、レイアウトの方法とその発表媒体の組み合わせに対して、そこまで意識がされていない気がする。