ここ数年、モラリストと呼ばれる人たちのことが、共感とともに気にかかっていた。1年ほど前(2012年12月31日)に読んで教えられることが多かった『モラリスト』(竹田篤司、中公新書、1978)では、モラリストの条件のひとつとして「人間は本質的にみなおなじであるという、人間の普遍性に対する確信が潜んでいる」(p.218)とされていた。

モラリストとは通常、「人間とはなにか」なる問の探究者であるといわれる。「人間とはなにか」は、すなわち「私とはなにか」であり、かつ同時に、「きみとはなにか」にほかならない。作者の探究は、すなわち読者である我々ひとりひとりの探究である。作者は読者を必要とし、読者は作者を媒介とする。
 このような構造が成立するためには、作者の側にも読者の側にも、「人間」とは本質的に変らない、普遍的な存在であるという確信が必要である。時間を超え、場所を問わない不変不動の「人間」の存在が、前提されていなければならない。(pp.230-231)

おそらくこうしたモラリストにとっても、「常識」は重要な概念になるのだろう。そして同じ本では、それら「正統的モラリストの系列」が18世紀で打ち切られたことについて、次のように書かれている。

安定したアンシャン・レジームの崩壊に伴って、人間はひとりひとりまったく別であり、そもそも人間に本質など存在し得るかどうかという新しい疑問が人びとの心を捉えたとき、モラリストはその席を小説家に譲らなければならない。(p.221)

小説は、モラリストたちが用いていたエッセイや断章よりも、客観的・相対主義的な記述に向いた形式だと言える。自分とは異なる多様な他者を描きやすい。「人間はひとりひとりまったく別」といったことは、当然のように知ってはいたつもりだけど、昨日書いたような都知事選や政治のことを考えたりすると、あらためて強い実感のなかで迫ってくる。本では、「しかしそれならばモラリストは、もはや旧時代の遺物にすぎないのか」と問われ、次のように書かれていた。

モラリスト精神分析構造主義も知らない。すくなくともそれらに依存しない。したがってモラリストの目は、無学の目であるかもしれない。しかしすくなくとも怠惰な目であることだけは、拒否し続けるであろう。既成の知識や体系のうえにあぐらをかき、公式的な思考操作に安住していることほど、モラリストの精神に反するものはないからである。日に日に複雑多岐となる現代社会のなかで、モラリストであることの必要はますます大きい。が同時に、その困難さもいよいよ険しいといわなければならない(pp.221-222)