今回の都知事選では宇都宮健児さんが当選するとよいなと思っている。宇都宮さん以外でもこの人ならまあいいか、という人もいない。
僕は政治の具体的な問題について特に熱心に勉強しているわけではないので、「この人は無知で無能で低俗で傲慢だけど、これこれこういう理由で、この人がトップになると結果的に世の中がよりよくなる」というところまで考えがおよばない。あくまでその人自身と、その人が言っていること自体で判断することになる。
そうなると、たとえばテレビやインターネットでの候補者による討論番組を見ていて(そういう場合はたいてい有力とされる4候補のみだけど)、誰を選ぶべきかは明らかなように思える。おそらくだからこそ、既報のとおり、討論を避けたい何人かの候補者の意向によって、予定されていた公開討論会がことごとく中止になっていったのだろう。4人の候補者を見る限り、選択は知性で判断すべきことではなく、常識感覚で判断すべきことではないかとさえ思う。たとえ今の日本や東京の現実をまったく知らない人であっても、成人として人間の社会に暮らした経験があれば、述べられている政策の内容だけでなく、それを語るときの論理の組み立て方や、それぞれの思想に根ざしているはずの有機的な言葉の繋がりや広がり、他者の発言(問いかけ)に対する持論の展開(あるいは収束)のさせ方、またその際の口調や表情といったことがらで、誰を選ぶべきかはきっと判断できる。選挙としては、知性による判断が求められるような状況(候補者陣)のほうが健全だとは思うけど、今回の場合は生半可な知性よりも常識感覚のほうが信用できる。
ただ、僕個人がそれで判断するのはいいとしても、宇都宮さんが当選するために、他の人にも宇都宮さんに投票してもらおうとしたとき、そこで常識感覚に訴えるのはいかにも心もとない。とりわけインターネットが浸透した社会において、互いに常識感覚を共有できない人たちの存在が顕在化している。社会の構成員が多様であるのは今に始まったことではないにしても、常識感覚はそうした多様性のなかでも人々に共通の感覚だったはずで、だからこそ常識感覚(コモン・センス)と呼ばれてきたのだろう。しかし、それが現代では急速に失われつつあるように思えてならない。
実際のところ、そうした状況にどう向き合ってよいかは分からないけれど、ひとまずこのブログを読むような人たちとは常識感覚を共有しているだろうから、こんなことを書いている。