ひょんなことで、桑沢デザイン研究所の2年生の設計課題の講評会にお邪魔した。各自がくじ引きで当たった篠原一男の住宅の隣に、そのクライアントの子世代のための住宅を設計するという課題。毎年恒例らしい。メインのゲスト講師は東京工業大学のデイヴィッド・スチュワートさん。
桑沢デザイン研究所では専門の授業(スペースデザイン専攻)は2年時から始まるそうなので、学生たちはまだ建築を学び始めて1年目ということになる。大学を出てから低学年の学生に接する機会はほとんどなかったので、どんなものかと思っていたけれど(以前、ある女子大で教える知り合いの建築家が「お菓子の家でも作ってきそうな勢い」と漏らすのを聞いたことがあった)、想像していたよりずっとしっかりしていた。それは最初からバランスよく満遍なく学んでいこうとするよりも、多少偏っていてでも一つの確かな基点を定めたほうが主体的に思考しやすいということなのかもしれない。とりわけ篠原一男の建築のように、コンセプトが明快で、言語がともなっているものを基点とする場合。
ただ一方で、そうしてコンセプトや空間の形式が強いあまり、そちらのほうに気を取られてしまった学生もいるようだった。いくつかの作品では、超越的に外側から形式を操作しようとして、個々の空間のスケールやリアリティを考慮するのがおろそかになっているように見えた(とはいえ自分のことを思い出しても、初年度の課題なんてたいていそんなものかもしれない。あるいはむしろその点でも、他と比べて全般的によくできているくらいかもしれない)。篠原一男の言葉を借りれば「失われたのは空間の響きだ」(1962)ということになるのかもしれないけど、やはり形式的な外からの視点と同時に、現象的な内からの視点を併せもつ必要がある(「内/外」を「日常/非日常」に置き換えると、下のように言える)。

多木浩二さんは]篠原一男に対しては、非日常的なものを日常的な世界に入れ込むということで評価されていた。例えばスケールが極端に大きな住宅をつくるということは非日常的なわけですが、それを日常に包含するようなかたちで位置づける。逆に言えば、いかに日常性を保持しながら非日常的な世界をつくりだすかということです。
───坂本一成インタヴュー「坂本一成による多木浩二──創作と批評の共振」『多木浩二と建築』2013、p.175 http://kentikutonitijou.web.fc2.com/taki.html

それと、せっかくクライアントの子ども世代が隣の敷地に建てるという設定なのだから、もっと2軒の住宅が現実に隣りあって存在する状態を想像して設計したほうがよいとも思った。新しいものを建てることで、古いほうも価値が更新されるようなデザインは、実際に都市に建築を建てる場合にも求められることだろう。また、この課題では特に望まれていなかったのかもしれないけど、篠原一男の住宅で育った子どもが大人になって親になったとき、はたしてどういった住宅に住みたいと思うのかと考えてみても面白い。それは設計課題を身勝手なフィクションにしてしまうというより、むしろ現代におけるリアリティを求めることになりうると思う。なおかつ既存の住宅との関係や、住人の経験といった要素は、篠原一男自身は本質的に問題化しなかったことだろうから、そこを考えることで、篠原一男を基点としながらも相対化し、あるいは篠原一男を乗り越えようとすることにも繋がると言えるかもしれない。
ちなみに桑沢デザイン研究所では、かつて篠原一男自身も講師をしていたらしい。学生だった山田脩二さんは、篠原さんの講義でヤジを飛ばしたと仰っていた。