ジャイアンツ

昨日まで3試合ほど続けて、プロ野球の日本シリーズのテレビ中継を途中から見ている。日本シリーズを見るのはもう10年以上ぶりくらいな気がするけど、なんとなく見始めたら意外に面白い。いずれも接戦になっていることに加え、巨人という古い球団と楽天という新しい球団の戦いが、なんらかの緊張感を生んでいるということもあるかもしれない。WBCの第1回のときのような気分の高揚があって、あらためて世の中でメジャーなものがもつ可能性を感じさせられた。数日前の上原浩治のワールドチャンピオンも、素直に心を動かされるものがあった。
小学生の頃には中畑清の缶ペンをもつほどには巨人ファンで、その心性は野球中継をほとんど見なくなった現在も根深く残っている。今日の第7戦でも、9回に田中がマウンドに上がったとき、実況や客席の盛り上がりとは裏腹に、僕にはむしろゲームをひっくり返すチャンスだと思えたが、結局それはままならなかった。以前、同じく巨人ファンである赤瀬川原平さんに、どうして(本来なら赤瀬川さんが嫌うはずの)圧倒的な多数派で、手段を選ばず金にものを言わせるような球団に惹かれるのか聞いことがあったけど、赤瀬川さんの答えはたしか「小さい頃から好きだったから…」みたいな感じだった。やはりなにかのファンであるということは、合理性では計れないことなのかもしれない。
一方で、これはあくまでチームの話であって、個人選手だったらこうはいかない気がする。圧倒的な多数派で、手段を選ばず金にものを言わせるような選手に惹かれることは、たぶんない。チームのファンであることと個人のファンであることは、わりと地続きに考えられているように思えるけど、本当はそうではないのかもしれない。チームのほうには、なんというか宗教性のようなものが発生している。考えてみるとジャイアンツ以降、「日本代表」という決定的に宗教性のようなもの(ナショナリズム)を喚起させられる場合を除いては、なにかのチームのファンであったことはないかもしれない。あったとしても、それは個人の集合としてのチームではないかと思う。中学生の頃、F1に熱を上げていた時期に、自分はフェラーリのファンを自認していたけれど、その後フェラーリのドライバーだったジャン・アレジがチームを去って、急速に熱が冷めてしまった意外さを覚えている。