島村菜津『スローシティ──世界の均質化と闘うイタリアの小さな町』(光文社新書、2013)を読んだ。昨日の『遠ざかる家』(1957)と並行して読んでいたのだけど、まさに連続的というか、『遠ざかる家』のその後のストーリーという感じで「イタリアの小さな町」が描かれる。奇しくも前書きではカルヴィーノの『見えない都市』(1972)が言及されていたりして、そうなると『見えない都市』を好んで論じた多木さんともなんとなく繋がってくる。それこそ数日前の日記の「状況に対して直接的であるか否か」という対比で捉えられるかもしれない(5月10日)。

日本を覆っていく閉塞感の一つに、私は、生活空間の均質化というものがあるように思う。郊外型の巨大なショッピングモール、世界中同じような映画ばかり上映するシネコン、画一的な住宅街、駅前や国道沿いに並ぶチェーン店……。だが、私たちにこの世界の均一化から逃れるすべがあるのだろうか。世界のどこにもない個性的な町など、おとぎ話に過ぎないのか。

島村さんはイタリア発のスローフードという概念を日本に紹介した方で、去年すこし仕事をする機会があった(その仕事はまだ世に出ていない)。スローフードという言葉には、例えばロハスと同じような軽薄な印象を持っていたのだけど、島村さんの本を読むと、そこに関わる人たちの顔が見えてくる。様々な町の事例が紹介される『スローシティ』でも、あとがきで「私は、この本で町づくりの成功事例を並べたわけではない。今も地球のどこかに諦めない人びとがたくさんいることを伝えたかっただけだ」と書かれるとおり、そういった人びとや場所の固有性の描写がベースにある。その上で、それぞれの状況における問題の普遍性が抽出され、9章のヴァラエティが1冊の本の網の目を構成する。おそらくその固有性と普遍性のバランスがよいのだろう、読んでいてそれぞれの場所に行ってみたくなったりもする一方、むしろより具体的に思い起こされるのは、自分が生まれ育った町の現在だったりする。