ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ『ある子供』(2005)をDVDで観た。明日qpさんと会う約束があるのだけど、昨日ツイッターのやりとりで、僕がダルデンヌ兄弟の映画が好きそうだと言われたので。そのやりとりは、もともとqpさんが「校舎を縦に切断して、複数の教室を横から撮影した学園ものが見たい」というようなことを書いていて、僕が学校でなく船ならありますよとウェス・アンダーソンの『ライフ・アクアティック』を紹介したことに遡る。その後、qpさんが『ライフ・アクアティック』を見てくれたようで、以下のように続く(いずれお互い削除しそうな気がするから転載しておく)。

  • qp ‏@akarusa 4月24日

ライフ・アクアティック見ました〜

  • 長島明夫 ‏@richeamateur 4月25日

断面シーンどうでした?

  • qp ‏@akarusa 4月25日

良かったですよ、映画も変というかセンス良いというか、余裕な感じが若いのにすごいですね

  • 長島明夫 ‏@richeamateur 4月25日

その余裕さが僕はちょっと飽きたりないのですが http://d.hatena.ne.jp/richeamateur/20130216

  • qp ‏@akarusa 4月25日

趣味の問題かもですが、自分も同意見です。監督の手の平で、って感じありますよね。でもあれだけの絵を作ってるのにそれをさらっと撮れるのはなかなかできないですね。好きではないですけど、才能あるんだな…という感じで…。

  • 長島明夫 ‏@richeamateur 4月25日

最新作の『ムーンライズ・キングダム』はわりとqpさんの世界観に近いかもしれないですけど(少年少女)、やっぱりqpさんのスナップ写真にあるような沸き立つ実感が感じにくいんですよね。

  • qp ‏@akarusa 4月25日

それはまあ映画なんで作り物感あるの当然と思いますけど、ただウェスアンダーソンはその中でもけっこう作ってる感強調するタイプですよね。なのでそういう意味ではダルデンヌ兄弟とかの方が完全に好きですね。たぶん長島さんも好きそうですね

  • 長島明夫 ‏@richeamateur 4月25日

まあでもqpさんの写真だって、作ってる感は十分あるじゃないですか。ダルデンヌ兄弟は『息子のまなざし』しか見たことないですが、それはあまり感心しなかったような記憶があります…

  • qp ‏@akarusa 4月25日

息子のまなざし」好きですけどねー。冒頭の、木材削る機械音でもう痺れました。疑似ドキュメンタリーといえばそうなんですが。

  • 長島明夫 ‏@richeamateur 4月25日

あまり記憶が定かではないのですが、疑似ドキュメンタリーという形式自体の問題ではなくて、その形式が生み出す特権的な視点をどう位置づけるかが問題なのかなと。qpさんの先輩である山下敦弘さんの疑似ドキュメンタリーなんかは結構好きですし。

  • qp ‏@akarusa 4月25日

なるほど…分かるような分からないような。最新作見てないですし「息子のまなざし」もまた見直したくなりました。なぜか終わりだけYouTubeに。
http://www.youtube.com/watch?v=6s9aXoRvgNc

  • 長島明夫 ‏@richeamateur 4月25日

ラース・フォン・トリアーの映画にも似たような印象を持っていますが。でもダルデンヌ兄弟、もうちょっと見てみます。

そんなにたくさんqpさんと話をしてきたわけではないけれど、例えばなにかの作品について、それぞれの分野による知識の差などはあっても、それなりに本質的な部分で話ができる気がする。あるいはお互いが本質的と思う部分で話ができる気がする(qpさんがどう思っているかを確かめたことはない)。
これはある意味では当然かもしれなくて、もともと僕がqpさんの作品に興味をもって声をかけたのだから、なんらか共有する部分はあるのだろう。たとえば上のウェス・アンダーソンにしても、世間的には非常に評価が高い監督だろうし、qpさんの作風をすこし知っている人なら、qpさんが好きそうな映画だと思っても不思議ではない。しかしそうした「世評」や「作風」とは別の価値基準で話ができる。
もちろん時には意見が異なる。例えば『ある子供』は僕は決して好きではないし(質が高いとは思う)、ダルデンヌ兄弟ジョン・カサヴェテスの映画が似ているなどと言われると、確かに似ているかもしれないけどその類似は僕には重要とは思えない。しかしそうだとしても、そのこと自体はひとつの「本質的な部分」として、会話の題材になりうる。qpさんのほうも割とずけずけ言う人で、そのことは前にもすこし書いた(2012年8月28日)。
僕は必ずしも「議論好き」ではないし、きっとqpさんもそうだろうと思う。作品を語ることは、自分の輪郭を大きく見せたり、鋭さを誇示したり、相手よりも優位に立とうとしたりするための行為ではなく、大げさに言えば、作品そのものが自分や自分以外の人生とどう関わるのかという問題を前提にもつ。これは『多木浩二と建築』p.180の「分かる必要がある人には分かる」という話とも通じる気がする。