岡田利規「女優の魂」(『美術手帖』2012年2月号)が面白かった。コミカルな短編小説。読んでいて、岡田さんが以前、□□□の「Tonight」という曲(アルバム『TONIGHT』2008)を批判的に評していたことを思い出した(「チェルフィッチュ岡田利規の超口語批評 第5回」『エクス・ポ』Vol.6、2008.10)。それはたぶん、(1)小説の筋とその曲の歌詞とが近い、(2)小説で描かれていることとその批評で言われていることとが似た雰囲気を持っている、というふたつの理由による気がする。
それはともかく、主人公である女優の意見として述べられている下記のことは、昨日アンダースさんの写真について書いた「あいだ」と通じるように思う。ちなみに言うまでもないかもしれないけど、僕が多用している「あいだ」という言葉は木村敏さんが論じた「あいだ」に基づいているつもり。

 ところで私の意見では、パフォーマンスの成否、というのは、これはもう非常にはっきりした基準を持っています。[…]
 もしも役者が、舞台上でなにかを言ったり動いたりするとき、その言い方や動き方自体を、あーだこーだ、もしくはあーでもないこーでもない、と問題にしていたとしたら、そのパフォーマンスは絶対に否、です。だってそれって役者が自分のパフォーマンスを所有して手放さないでいるということだから。観客にそれを渡そうとしてない、ってことだから。[…]
 そうではなく、自分がある言葉を言ったということのその効果を、または、自分が動いてみせたことのその効果を、問題にすることができているとしたら、それはきっといいパフォーマンスです。そのように遂行されたパフォーマンスは、空間を変化させること、あわよくば時間を伸縮させることができる。少なくとも、その可能性を持っている。(pp.107-108)