柴崎さんの小説における他者への想像のあり方や人々が遍在/関係する世界像は、多少かたちを変えつつ岡田さんの作品にも見られるような気がする。たとえば「わたしの場所の複数」「わたしたちは無傷な別人であるのか?」「家電のように解り合えない」といった岡田さんの作品のタイトルだけからでも、それは察せられるのではないだろうか。
ただ、岡田さんが演劇という形式を前提にして、「漫喫」や「ファミレス」など、どちらかといえば空間を抽象化して捉えるのに対し*1、柴崎さんはより強く具体的な場所や物を受けとめている。これはご本人が言うとおり、柴崎さんが大学で人文地理学を専攻して、オギュスタン・ベルクなどを読んでいたことが大きく影響しているのだろう(→参照)。その点で柴崎さんと多木さんを関係づけるのも、あながち的外れではないかもしれない。「わたしがいなかった街で」もハイデッガーあたりを経由して読めそうな気がしないではない、などと書いてみる。
以下、柴崎友香「わたしがいなかった街で」より(『新潮』2012年4月号、p.96)。

 日陰で、中井の携帯電話に収められた、京橋の空襲の慰霊碑と大阪城公園の機銃掃射跡の画像を見せてもらった。デジカメもフィルムも買う金ないからこれで、と中井は言った。大阪城の石垣に残る弾痕は、野球のボールくらいの大きさだった。
 日常という言葉が指すなにかがあるとしたら、あのときも、現在も、遠い場所でも、ここでも、同じ速さの時間で動き続けている街の中に、ほんのわずかのあいだだけ、触れたように感じられる、だがその次の瞬間には、もうそれがどんな感じだったか伝えられなくなってしまうような、そういう感じかたのことだと、思い始めている。
 見たり忘れたり現れたり消えたりしたあとで、わたしの中に残っている数少ない確かなことは、自分が今、この世界で生きていると思うこと。わたしは生きているし、映画のセットや張りぼてみたいに思えても、今この網膜に映っているものは、そこにあって、近くまで行けば触れる。そして、しばらく見ていてもなくならなかった。

以下、たまたま今日読んだ文章から。いくぶん当てずっぽうに。

都市があらかじめどんな姿をしているか、今見えている皮膜の下になにが隠されているか、それを考えることは底なしの砂漠を掘るようなもので、記憶の下をどこまで掘っても掘ってもただ砂ばかり、といった結果になりかねない。目的の街を別にもって都市を通り過ぎる旅びとや、聳え立つ都市に住まう人びとにとっては、埋もれた都市など、どうでもいいのである。だれも都市の真実を知ろうとは考えてもみないし、それを知ろうとすること自体、都市に生きることにとって危険になりかねない。われわれには見る人があたえたかたちだけで充分なのである。うっかりそれらの表象を表象として見るメタフィジックを心得ようと不届きな野心を抱いたなら、自分自身が表象中の表象に変身してしまい、カフカの虫のように生きる危険を冒すことになるやもしれない。
───多木浩二「[風景の修辞学1]『夢』の地図帖──アジェの旅するパリ」『10+1』No.1、INAX、1994.5、p.2(所収:『建築・夢の軌跡』青土社、1998)

*1:『三月の5日間』の渋谷とか例外は挙げられるだろうし、もしかしたら震災以降で岡田さんになんらかの認識の変化もあるかもしれない。短編「問題の解決」(『群像』2011年12月号)にはそんな雰囲気が感じられる。