10+1 websiteのアンケート「2011-2012年の都市・建築・言葉」に回答した。
http://10plus1.jp/monthly/2012/02/enq-2012.php
『建築と日常』No.2(建築と所有)、3.11という呼称、多木浩二さんの逝去、古谷利裕さんの写真などについて、それぞれ微かな繋がりのなかで書いているつもり。多木さんについては分かったようなことを書いてしまったけれど、それはすこし前に「家具を彷徨った人」(所収:大橋晃朗『トリンキュロ』住まいの図書館出版局、1993)という文章を読んだことが影響しているかもしれない。前年に亡くなった大橋氏のことを語りながら、そこに自らを重ねているような、多木さんには珍しく私的で感情的な文章だった。

私は彼があまりにも孤独な人だったというイメージは拭えない。その孤独は彼の存在に浸みとおっており、外面的なことはどうでもいいといった態度も窺えた。彼には学校のことも、学生のことも、同僚の程度も見抜いていた。もちろん彼は私のようにそれを攻撃的にだすことはなかったから直接の被害は被らなかったが、それはウィークポイントになった。(Appendix 7)
彼の仕事をあまりにもよく知っている私としては、彼が突然いなくなってしまったあとで感じるのは、彼はほんとうにはデザイナーとして現代社会を生きていくには不向きであったということなのだ。世界はそんなに自分の思うようにはならないし、デザイナーは汚れた仕事に手を染めねばならないのである。だがそれは彼にはできなかった。[…]
そのかわりに教職を選んでいた。それは彼にとってもうひとつの苦痛であった。美術大学というものはデザイナーにとって墓場のようなものである。例外はあるにしても、一人前以上の仕事のできる作家のいくところではない。教育が無意味だというのではない。教師であることもひとつの重要な社会的役割である。教師にも利点はあった。嫌な仕事はしないでも、なんとか食っていける。
しかしそれはデザイナーにとっては致命的であった。たとえ九九パーセントまで、ろくでもない仕事をしていても、現実世界でデザインによって生きることは、残りの一パーセントでデザイナーとしての思想を社会化する機会が生まれることを意味する。大学にいるとそれは免除されている。愚かな人間はデザイナーとして大学にいることを権威のように錯覚することもある。しかし理性的でその痴愚をすっかり見ぬいていた大橋さんにとっては大学にいることは苦痛であった。それに彼のいた大学は酷すぎた。愚かでがさつな同僚と付き合い、遊び呆けた学生相手になにを教えるというのか。彼は白けきっていた。こんな連中のことなんか知ったことか……彼のぎりぎりの心理的な抵抗を知る私は悲しい思いを免れない。(Appendix 11-13)