坂部恵『かたり──物語の文法』(ちくま学芸文庫)。関心のあるところを拾い読みしていたら、肝心の具体的な分析が飛ばし読みになってしまった。
物語と日常。

〈ものがたり〉の語り手は、いわば、日常効用の生活世界の水平の時間の流れと直交する、〈ミュートス〉の遠くはるかな記憶と想像力の垂直の時間の次元の奥行へと参入し、二つの次元を往来しつつかたることによって、共同体の共同性の繰り返しての創出基盤ともなり、またわれわれの心性と宇宙の根底の形成力とのきずなともなるもののうちへとこころを根づかせ、また、世界と人間の生を解釈し、行動の指針をあたえる一連の母型(マトリックス)ないし範型を凝縮された形で提供するというようなこともあるだろう。(p.49)

通常の記憶や想像力の世界と〈ミュートス〉の世界をへだてる境界は、しかし、それほど明瞭なものではなく、ひとは、一旦、日常効用の水平の世界と直交する記憶や想像力の垂直の次元に参入すれば、そこでは、すべての形象は、すでになにほどか神話的色合を帯び、反対に、遠い記憶の底に沈んだあれこれの神話的形象や原型(archetype)は、日常の記憶や知覚の世界に還流する思いがけないほどに身近な直接の回路をわれわれの心性のうちにそなえているかもしれない。それは、一言でいって、プルーストジョイスの記憶や想像力の〈かたり〉の世界であり、あるいは、ベルクソンの持続と純粋追憶の世界である。(p.53)

語られるものそのものよりも、語り方や語られ方、語ることや語られることの問題。

言語をたんに事実の描写ないし記述の道具と考える〈記述主義的誤謬〉や、あるいは、それをたんなる事実に関する情報の伝達のための手段と見なしたりする考え方が、[中略]いかに近代科学の認識の客観性なるものへの過大でしかも排他的な信頼と、ひいてはまたそれと密接な形で結びついた人間による世界あるいは自然の支配を志向する人間中心的な形而上学の影響下にあるものであるか(p.32)

「かたり」と「はなし」の違い。

この、「語られた世界に特有の拘束性の少なさ」は、まさに、キュービズムにも比せられる仕方で複数の視点を導入して、現在と過去を、あるいはさらには、現実の世界と想像の世界を、自由自在に往き来し、(たとえばいわゆる〈反事実条件法〉によって、すくなくとも想像の上で時間に可逆性を導入すること等々によって)、目前の効用というその時々の一つの視点のみに拘束され、当面の必要の〈緊張〉にしばられた〈はなし〉の発話よりも、見方によって、当然、よりひろい有効性をもつ、あるいは、いいかえれば、〈有効性の拡大〉の効果をもつと見なされうるだろう。また、一旦このように読み変え、視点を転換してみると、逆に、〈はなし〉の発話に特有の拘束性の強さや、既成事実の確実性ないし動かしがたさは、むしろ、こちらの側こそが、複数の自由な視点を、当面の行動の関心という一つの視点に拘束するという点で、たとえば〈有効性の狭隘化〉とでも名づけられるにふさわしいということになるだろう。(p.151)

かたり―物語の文法 (ちくま学芸文庫)

かたり―物語の文法 (ちくま学芸文庫)