以下、古谷利裕さんの「偽日記@はてなブログ」より。議論について。

議論ができる人は稀だ。理論的な思考ができるというのは最低条件でしかない。相手の意見に対して疑義を示すことが、相手への否定でもなく、攻撃でもないということを、互いに共有していないと、自由に発言できなくなる。上下関係とか師弟関係とかが介入すると面倒だ。意識せずとも湧いてきてしまう闘争心(相手に勝ちたいという気持ち)も障害となる。オーディエンスがいる場合は「ウケ」を狙ってしまうことを抑制することが難しい。有名人の場合は、自分のファンに対してカッコつけなくてはならないということもある。

リンク先で語られているのは、一般的な議論の定義というより、ある理想化された議論の意味についてだろう。その水準でいうと、議論の条件とは各々がまず孤独に考えることだと思う。その経験があれば自ずと、議論において「勝ち」や「ウケ」など狙わず、「新たな何か」を求めようとするのではないか。

卒直に、腹の底を断ち割って、快活に、建築を語りたいと思っても、建築界が皆、よそ行きの顔ばかりしていると、自分だけ本心をさらけ出すのも馬鹿々々しくなって、つい口を噤まざるを得ないような、気まづい心に追われている人は多かろう。

  • 谷口吉郎「主張」『建築知識』1936年9月号