『精選建築文集1 谷口吉郎・清家清・篠原一男』の感想がちらほら届くようになってきた。本の作り方としては、やはり素材を活かすということがいちばんの根本にある。3人のよりよい文章をよりよく読めること。ただしそれは編集の手をなるべく加えないということではない。料理において生肉や生野菜のままであることが必ずしも素材を活かすことにはならないのと同じだろう。
学生も含めた多くの建築関係者にとって、この本の第一印象は「東工大系の本」ではないかと思う。販売戦略(そんなものがあるとすれば)的にも当然そこを見据えて三者を組み合わせているし、現在にまでつながる東工大の系譜(あるいは建築における師弟関係の意味)を浮かび上がらせるつもりで、坂本一成さんと塚本由晴さんの対談を付録にもした。
一方で、この3人の建築家の名前から東工大を連想しない人もまた大勢いるだろう。普通に考えればそちらのほうが圧倒的に多い。そういう人に対しては、この本を東工大のパッケージでくるむことは学閥の内に閉じた印象を与えて、読書の敷居を上げることになってしまうかもしれない。だから書名や表紙では意図して東工大や師弟関係のことは出さないようにした。べつにそれで本の内容を偽っているつもりはなくて、実際、本文自体も東工大の文脈とは特に関係なく読めるようになっていると思う。そもそも建築の非専門家に読まれることは、この本の著者たちの願いでもあった。少なくとも谷口と清家の文章は、それぞれの信念に基づき、一般読者に向けて書かれたものが多く、それをあらためて現代の一般読者に提供するというのは本書の出版の目的の一つだと言える(この本について僕が語ると妙に小難しく感じられて、逆に手に取りづらくなってしまう人もいそうな気がするけど、気持ちとして半分くらいはむしろそういう人──非専門家の建築好きや、昔の生活文化をめぐる文芸に関心があるような人に向けて作っている)。
要するに、東工大の系譜や建築家の師弟関係という視点で読んでもらってもいいし、単に個性の異なる3人の建築家の文集として読んでもらってもいい。歴史的なものとして読んでもらってもいいし、現代に通じる建築の見方として読んでもらってもいい。読書の方向性を限定しないそのような中庸の態度こそ素材を活かすことになる、というのが今回の編集のスタンスだった。文章のセレクトもそういったスタンスを前提とし、へんに特定の方向に偏ることなく全体としての密度を高めるような構成になっていると思う。
しかしそれにしては、巻末の編者解説(→冒頭約3000字)はやけに踏み込んだことを断定的に語っていると思わせるかもしれない。編者解説でもやはり素材の味を引き出すつもりでなるべく沢山の情報や視点を盛り込むようにしたけど、それとともにこの本では、編者自身が3人の文章を主観的に読む姿勢が求められると思っていた。つまり編者解説の冒頭、本書の出版の趣旨を説明するなかで書いた「まず建築家自身が書いた文章に向き合うことこそ確かな経験になる」ということを、自ら一つのサンプルとして実践してみせるということ。
すでに世の中にはこの3人の建築家についての文章が数多くある(それは例えば篠原一男について多木浩二が書いたというような特別な文章ばかりでなく、ウィキペディアや様々な媒体に載っている短い紹介などの匿名的な文章も含めて)。しかし本書の解説では、それらの文章の平均や最大公約数を抽出するような書き方をせず、あくまで自分自身が3人の文章と向き合い、個人としてちゃんと実感を持てる範囲のことを書くようにした。言ってみれば当たり前のことだけど、そういう態度自体が現代の歴史や批評をめぐる状況への問題提起ともなり、本書の出版の意義を保証するのではないかと思っていた。
といってことさら独創的な内容を目指したわけではなく、むしろ自分だけの独創にならないように気をつけて書いている。だから非専門家や初学者にはとりあえず信じてもらってよい内容だと思うし*1、僕の文章に主観性を感じる人には、その感覚を起点として、その人もまた主観的に自分の考えで本文を読んでもらったらいい。素材を活かすということは、そうして様々な読者の様々な読み方を引き出すようなことも含んでいる。いずれにせよ自分が解説を書くのと同じ本に3人の文章そのものが載っているというのは、いい加減なことが書けない反面、なにを書いても正解がすぐそこにあるわけだから、一介のアマチュア研究者をいくらか気楽にさせた。

*1:ただ、谷口吉郎と清家清についてはそれなりに確かなことが書けた気がするけど、篠原一男については(自信がないわけではないものの)この編者解説の視点とは異なる視点で見ることも十分可能だろうと思う。その原因として、そもそも篠原の文章は抽象度が高くレトリカルで、複数の解釈を許容する構造的な性質を持つこと、またその時々のジャーナリスティックな時代性や自身の設計作品と強く連動しており、それらに対する読者の認識や経験次第で文章の見え方が変わってくること、が挙げられると思う。だから特に篠原一男の文章の読解については、いろんな人の意見を聞いてみたい気持ちがある。