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『建築ジャーナル』最新号。「さよなら安藤忠雄」という特集はどこかで聞いたことがあるなと思ったらこれ↓だった。前に読んだ(2016年6月7日)、都築響一『圏外編集者』(朝日出版社、2015年)。


特集の目次を見るかぎり、都築さんが言う「さよなら安藤忠雄」とはスタンスが違いそうだけど、むしろそうであるからこそ、この人目を引く特集タイトルは(主体的に生まれたものではなく)都築さんの本から引かれてきたような感じがする。
「さよなら○○○○」みたいな言い方が魅力的なウィットとともに批評として最も機能しうるのは、たぶんその作家が世間一般でまだ全盛期と思われているうちだろう。すでに十分に下の世代が台頭し、病気をして体力も落ちて終活的な仕事を進めている建築家に対して使えば、どうしても陰湿な印象が生まれてしまう。音楽の世界でたとえるなら、今「さよなら坂本龍一」と言うのに近いだろうか。「さよなら秋元康」ならば多くの人にとって納得のいく(想像の範囲を出ない)批判になっていそうだし、「さよなら椎名林檎」ならば、そこにリスペクトを含んだ批評を予感させる。それぞれレトリックの表れ方が違ってくる。
なんとなしに音楽を例にしたのは、そこが流行やシーンの力の強い業界だからかもしれない。その点、建築の分野は多少異なる気がする。ある建築家と「さよなら」しても、それと違う次元で作品は数十年と存在し続ける。みんなそのリアリティを日常で普通に知っているから、「さよなら○○○○」というレトリックが成り立ちにくいのではないか。今の建築界で無理なく想像しうるのは「さよなら隈研吾」くらいだろう。相当うまくやれば、「さよなら椎名林檎」みたいな意味で「さよならSANAA」や「さよなら石上純也」も成り立つかもしれないけど、編集者の力量が厳しく試されることになると思う。