昨日から何度も目にする「民主主義の危機」という言葉がいまいちぴんと来ない。それらは多くの場合、「社会体制の危機」とでも言ったほうが妥当に思える。白昼に国家の要人が殺害されるのは、民主主義に限らず社会主義でも独裁制でもクリティカルな事件に違いない。
たぶん昨日の事件によって民主制が崩壊することはないだろう。しかし民主制のルールの枠内で、社会がより悪くなっていくことは想像できる(民主主義はそれさえあれば十分というものではない)。そしてその動きのなかでは、「民主主義の危機を乗り越える」という耳触りのよいスローガンが合唱されてはいないだろうか。
昨日の事件がとりあえず今のところごく私的で単発的な犯行であり、(「民主主義の危機」を深刻化させるような)組織的・構造的に連鎖していく性質のものではない(と多くの人々に感じられている)ことは、今日この時間にも多くの候補者が街頭で選挙活動をしていることからも明らかだろう。だからもし「民主主義の危機」があるとすれば、昨日の事件そのものよりも、事件を理由にして市民や反対勢力の活動を抑制し、国家主義に傾いていく統治機構の動きのほうを懸念すべきだと思う。だから統治機構の側にいる人たちが自ら「民主主義の危機」を叫ぶ姿は余計に違和感がある。