『八束はじめインタビュー 建築的思想の遍歴』(鹿島出版会、2021年)を読んだ。八束さんの芝浦工業大学定年退職(2014年)をきっかけに企画された本で、八束さんの学生時代からの「建築的思想の遍歴」をたどる。インタビュアーとしてクレジットされているのは八束研出身の金子祐介さん。以下は冒頭、その金子さんの発言。

こうした昨今の状況を俯瞰してみると、建築界で扱われたいろいろな歴史的事象が、その本質への理解を欠いたままに表層だけが漂い残っているのではないのかと懸念されます。
 その背景には、読み手の知識量の低下ということもありますし、「売れるもの」を先行してつくろうとする出版界の問題も大きいと思います。ただ、このどうしようもない状況を憂いていてもしょうがないので、“八束はじめ”という「建築」に対して思想を投影したであろう人にお話を聞いてみることで、ここ数十年の日本の建築史界の思想的な状況の動向を俯瞰してみてみたいわけです。(pp.6-7)

現状に対する金子さんの批判意識は強い。僕自身はそれに共感するところとしないところがあったけど、これだけの強い思いで(入念な準備をして)踏み込んで問いかけているからこそ、八束さんから多くの言葉を引きだせているのだろう。やはりインタビューはバランス感覚も大事だけどすこし偏ったくらいの前のめりな思いも大事だと思わせられた。教え子と向き合う八束さんの誠実さと聡明さも感じられる。

 建築が宙に浮き始めたのは、1970年代の後半以来でしょう。それ以前、メタボリズム時代の建築家たちは建築論を書くわけですよ。黒川紀章しかり、磯崎新しかり、菊竹清訓しかり、槇文彦しかり。篠原一男だってそう。日本に限らず海外の建築家も。今の建築家もよく書いたりしゃべったりはするわけですけれども、じつに根拠のないことを個人の感性の名の下に平然と流通させている。学生のほうも、そもそも本を読めなくなっている。だから無根拠な物いいが流通してしまうのですね。思考の崩壊が起こっているという危機感を覚えます。根拠を聞いてみても、学生だけでなくほかの教員ですらも、はかばかしい答えは返ってこない。面白いと思うからとか、それは答えではない。(p.112)

この発言はいかにも八束さんらしい。僕も大部分共感するものの、しかし後の世代が前の世代の影響をまったく受けずにそうなっている(じつに根拠のないことを個人の感性の名の下に平然と流通させている)はずはないのだから、新旧世代は対照的であるとともに連続的でもあるに違いない。つまりメタボリズム時代以前の建築家の建築論のなかに、現在の状況に繋がるなにかが見いだせるのではないか。僕がいま遅々として進めている仕事は、そのあたりに触れるものかもしれない。