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写真を撮りながら近所を散歩。上3点、どれも壁面の構成やプロポーションに特徴がある家。ただし、写真に撮ることでその特徴が濃く見えるようになるか薄く見えるようになるかは定かではない。撮影者である僕自身は、やはり実物を見ているだけあって、写真ではそれぞれの印象は相対的に薄くなりそうなものだけど(たとえば一番上の写真の家は、縦長のプロポーションが現地ではもっと際立っていたような気がする)、現地では他に視界に入ってくる家々との微妙な違和感として知覚されたその家の特徴が、写真ではより客観的・分析的に見えてくるということもある(3つめの写真は、撮ったときには外壁の構成は特に意識しておらず、それよりも光が照らすさまに目を引かれて撮影した)。
こうした家の特徴は、僕自身はどちらかというと好ましく思っているわけだけど、それぞれの家に住んでいる人にとっては必ずしもそうではないかもしれない。というか別にふだんは良くも悪くも思っていないかもしれないが、見ず知らずの他人に興味本位で写真を撮られたりするのは快く思わないというのが普通かもしれない。だからこちらとしては、せめてなるべくちゃんとした写真を撮りたい。いかにも雑に撮ったという感じがうかがえるものや、皮肉っぽく見えたり馬鹿にしているように見えたりするものは、少なくともネットで公開することは避けるようにしている。これは建築家の住宅やハウスメーカーの住宅でも変わらない。現実の建築の存在は、作品や商品としての枠組みに収まらない意味をもっている。
しかし本来の性格としては多分に皮肉っぽいところがある僕が、写真でそれを表現したくないと思うのは、建築に対する上記のような認識が作用しているというほかに、そもそも写真という表現媒体のもつ曖昧さが皮肉には向いていないということがあると思う。たとえ写真に皮肉を込めたとしても、その写真に付随する文字や文脈がなければ、その表現はどうしてもぼやけてしまう。皮肉は鋭さが命だ(あんまり鋭いと、切られた人は切られたことに気づかず、周りの人にだけそれが見える)。やはり皮肉はより細密に意味内容をコントロールできる言語という媒体に向いている。
以下、写真2点。
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