パナソニック汐留美術館で「分離派建築会100年展」(〜12/15)を観て、記念シンポジウム「分離派建築会──新しい様式を求めて」(香山壽夫・藤岡洋保・田路貴浩)を聴いた。
最近多木浩二の写真について考えていたこともあってか、分離派建築会(1920-28)が多木浩二らによる同人誌『プロヴォーク』(1968-69)と妙に重なる印象がある。個にもとづく創作の主張をしたところや、後に大成する人たちの若い頃の活動であるところ、実際の制作物よりも鮮烈なマニフェストや伝説的な運動としての歴史性が取り沙汰されがちなところ。たしか藤森照信さんがむかし森田慶一(1895-1983)に会いに行って分離派の話を聞こうとしたら、「みんな分離派のことを聞くけどそんな若い頃のことよりその後の研究のほうがよっぽど重要だ」みたいなことを言われたと書かれていた気がするのだけど、どこで読んだのだったろうか。そうやって後年の当事者たちからは「若気のいたり」くらいに思われているところも『プロヴォーク』と共通するかもしれない(森田以外の分離派のメンバーが自分たちの活動をどう思っていたのかは知らない)。
展示は多くの資料を集めた充実の内容だった。ただ、分離派のことを思うときいつも「分離派の建築」と「分離派メンバーの建築」の境界がよく分からない。言い換えると、分離派のメンバーたちはその当時、みな常に分離派とイコールの存在だったのだろうか。個人雑誌をやっている僕でさえ『建築と日常』=自分とは思えないし、ましてや分離派のそれぞれのメンバーの個性や仕事の広がりを考えたとき、なかなか「分離派建築会が希求した建築の芸術」に焦点が定まらない。対象を広げたほうが展覧会としては色々あって面白いとしても、そうすると余計に、分離派の建築史的エッセンスや、野田俊彦(「建築非藝術論」「建築と文化生活」)や谷口吉郎(「分離派批判」)らが感じていたような同時代的リアリティはぼやけてくる気がする。あるいは分離派の第一の主張が個人にもとづく自由な創作ということなら、結果としての全体像の捉えどころのなさも分離派らしいと言えるだろうか。そうした輪廓の曖昧さ/拡張性があるからこそ、100年後の研究者にまで研究テーマを供給し続けられているとも言えるかもしれない。
そういうなかで、あえて(と言ってよいと思う)分離派の創設メンバー6人に共通の精神を見いだそうとした香山先生の関連シンポジウムでの発言は、多少無理筋だとしても(確固たる様式概念の認識がなく混沌とした当時の日本建築界において建築言語による秩序を求めたのは、分離派よりも例えばその一学年上の吉田鐵郎だったのではないか)、香山先生の思想において必然性のある問題提起であり、新鮮で興味深かった。議論は深まらず残念だったけれども。