前々から気になっている「中庸」という概念がそのままタイトルになった短編小説を見つけたので読んでみた。

政治というものは技を要し策を要し、機にのぞみ変に応じて甚だ複雑困難なものの如くであるが、一面中庸を失わなければ大過なきを得るものの如くである。

  • 坂口安吾「中庸」1953年(『オモチャ箱・狂人遺書』講談社文芸文庫、1990年)

しかし物語は封建的な秩序が失われた敗戦後の村社会で中庸が敗れ去るという筋だった。一方、下の文で始まる小林秀雄の短いエッセイ「中庸」は1952年。ふたつの文章になにか直接の関係はあるのだろうか。

 左翼でなければ右翼、進歩主義でなければ反動主義、平和派でなければ好戦派、どっちともつかぬ意見を抱いているような者は、日和見主義者と言って、ものの役には立たぬ連中である。そういう考え方を、現代の政治主義ははやらせている。もっとも、これを、考え方と称すべきかどうかは、はなはだ疑わしい。なぜかと言うと、そういう考え方は、およそ人間の考え方の自律性というものに対するひどい侮蔑を含んでいるからである。

  • 小林秀雄「中庸」1952年(『常識について』角川文庫、1968年)

続き。

 昔、孔子が、中庸の徳を説いたことは、誰も知るところだが、彼が生きた時代もまた、政治的に紛乱した恐るべき時代であったことを念頭に置いて考えなければ、中庸などという言葉は死語であると思う。おそらく、彼は、行動が思想を食い散らす様を、到るところに見たであろう。行動を挑発しやすいあらゆる極端な考え方の横行するのを見たであろう。行動主義、政治主義の風潮のただ中で、いかにして精神の権威を打ち立てようかと悩んだであろう。その悩ましい思索の中核に、自ら中庸という観念の生まれてくるのを認めた、そういうふうに、私には想像される。

「中庸」は「常識」や「教養」とも通じ合う。