『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』の書評(7月26日)の執筆。この社会状況下で図書館の利用がなかなか難しくなっているけれど、別冊『多木浩二と建築』()の制作時にコピーした資料でほとんど間に合った(比較のために、多木さん以外が撮った篠原建築の写真の確認で、一度図書館に行った)。雑誌などに掲載された多木さんの建築系のテキストは、たぶん大体コピーしてあるのではないかと思う。さしあたって使う当てもなく、なかば強迫的に収集していたけれど、ここで役に立ってとりあえずよかった。
下の画像は『多木浩二と建築』のアンケート「私のこの1作」で入江経一さんが挙げられたテキストで、多木さん最晩年の「写真家とは誰か」(『写真空間1』青弓社、2008年)より。

コピーした当時は特に引っかかることはなかったけど、いま見るとこの一節はその後の『建築と日常』No.5()、「平凡建築」特集のテーマを指し示している。とりわけ「それはその場所に歴史が感じられるからでもなく、幼いころの記憶が蘇るからでもありません」という記述が、人間の日常のあり方について踏み込んでいるように思われる。
いまきちんと裏を取っているわけではないけれど、こうした多木さんの保守性は、70歳前後(1990年代後半)から目立って現れているのではないだろうか。若い頃のアヴァンギャルドが年を取って保守に転向するというのは一つの典型として語られるものの、多木さんの場合は転向というほど明白な切り替わりではないし、最後までアヴァンギャルドの側面も残していた気がする。この辺の割り切れなさに、多木浩二の思想のリアリティを感じる。