国立新美術館で岡﨑乾二郎さんと松浦寿夫さんによる公開対談「ボナールの教え」を聴き、「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」を観た(〜12/17)。「ボナールの絵には〈私〉がある」というときの〈私〉は、どちらかというと私小説的な〈私〉というより現象学的な〈私〉ではないかと思うのだけど、有名なマッハのイラスト()と例えばボナールの《ボート遊び》()の類似性みたいなところを指して、「ボナールの絵には〈私〉がある」と捉えたのではあまりにベタな気がする。しかもその場合の〈私〉は、具象画でしか成り立たないことになってしまう。対談ではボナールとロスコの類似性も語られていた。具象と抽象の両方で成り立ち得る〈私〉とはどういうものなのか。とはいえボナールの〈私〉にとって、具象であることはやはり決定的に重要にも思える。

岡﨑さんも松浦さんもこのバルコニーにあの人は描けないけどそれを描くのがボナール、ということらしい。とするとボナールの〈私〉は私小説的な〈私〉でもあるのかもしれない。




ボナール展を観て、言い尽くされていることかもしれないけど、写真/カメラとの関係が気にかかった。多元的・多層的な画面構成、画面端の人や物の切り方、至近距離の俯瞰の視点などは、写真表現との親近性を感じさせる。ボナール曰く、「不意に部屋に入ったとき一度に目に見えるもの」を描きたかったとのこと。

静物、開いた窓、トルーヴィル》。不思議な構図の絵だけど、建築を見学に行ったとき、室内と屋外の関係を写真に写しておこうとすると、似たような構図になりやすい。