ここ最近、家で観た映画。ビリー・ワイルダー第十七捕虜収容所』(1953)、ピエル・パオロ・パゾリーニ『奇跡の丘』(1964)、ロバート・ベントンクレイマー、クレイマー』(1979)、黒沢清『岸辺の旅』(2015)、S・S・ラージャマウリ『バーフバリ 伝説誕生』(2015)、同『バーフバリ 王の凱旋』(2017)。
第十七捕虜収容所』は戦争映画らしからぬ軽妙なコメディタッチのミステリー。ドイツ兵でさえ妙な愛らしさがある。面白いことは面白かったけど、第2次世界大戦の終戦からわずか8年というこの公開時期をどう捉えればよいのだろうか。たぶん悲惨な戦争をあえて相対化して描いたというよりは、あまり現実の戦争との関係を意識することなく作っているような気がする。勝者の余裕か。(と思ったけど、どうもワイルダーはドイツから亡命したユダヤ人らしいので、このへんは複雑な心理があるのかもしれない。)
『奇跡の丘』はキリストが生きていた頃の話。人物のアップが多い歴史劇/宗教劇という点で、『裁かるゝジャンヌ』(1928)を思い起こさせる。ただ印象としては、『裁かるゝジャンヌ』のアップが500年前の人たちとの「近さ」を表現しているように思える一方、『奇跡の丘』のアップは2000年前の人たちとの「遠さ」を表現しているように思える(それが達成されているかどうかはさておき)。『裁かるゝジャンヌ』の抽象的な表現が、キリスト教を知らない人にも迫ってくる人間の根源的なドラマを成立させていたのに対し、『奇跡の丘』は全編が聖書の物語に基づいているようで、部外者には敷居が高い気がする。キリストも思想性より神秘性が前面に出ていて、なかなか人間としての魅力を感じにくい。映像は美しかった。香山先生の『建築のポートレート』()で取り上げられていたマテーラが、映画の主要な舞台として存分に使われている。厳密には古代の造形ではないものも多く含まれているだろうけど、観ていてヨーロッパの空間的な歴史の厚みが感じられる。

クレイマー、クレイマー』は小学生くらいの頃に実家で観た記憶がある。フレンチトーストを作るシーンで、食パンを畳んでマグカップに入れるところだけ覚えていた。いったい親はどういう気持ちでこの映画を子供と観たのだろうか。テーマにしても映像にしてもシーンの繋ぎ方にしても音楽の使い方にしても、ライトでポップなベルイマンという感じ。
『岸辺の旅』はとても良かった。邦画でひさしぶりに傑出した作品を観た気がする。僕にとっての黒沢清監督のベストかもしれない。まもなくこの世から消えてなくなる男に対する「なにか望みを聞かせてくれよ」、「お前になにかできるのか?」「しばらくのあいだ覚えておくくらいできるよ!」という言葉が印象深い。記憶の価値、時間の意味。すこし時間を置いて、あらためて観てみたい。
インド映画「バーフバリ」2作は娯楽作として楽しめたけれど、ハリウッド映画の影響が強すぎる印象がある。むしろ去年観た『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(オーストラリア、2015)のような映画のほうが、その作品固有の秩序を生み出しているという気がする。