Besides, History

銀座蔦屋書店で、長谷川豪さんと加藤耕一さんの対談を聴いた(モデレーター=太田佳代子氏)。長谷川さんとケルステン・ゲールス&ダヴィッド・ファン・セーヴェレン氏の新刊『Besides, History──現代建築にとっての歴史』(鹿島出版会)の刊行記念として行われたもの。「歴史」という言葉がキーワードになっていたけれど、加藤さんのほうは長谷川さんとの歴史観の違いを意識し、慎重に距離を測りながらその差異を浮かび上がらせようとしているように見えた(そうした両者の関係性は、去年の10+1 websiteでの対談()から引き継がれていると思う)。
実際、今回の長谷川さんの本は、どちらかというと歴史的というよりむしろ反歴史的であると思う。歴史という言葉を厳密に定義するのは僕には難しいけれど、少なくとも歴史とは個人の意識を超えたところで「流れ」や「広がり」とともにあるものだろう。しかしこの本では、過去の建築がそれぞれの「流れ」や「広がり」から切り離され、思いのまま自由に配置されている。さらに個々の建築は、その存在の全体が問題にされるのではなく、平面や断面やパースや模型に分割された状態を一つの独立した単位として扱われている。そこで過去の建築に対する共感や敬意があることは確かだとしても、こうした態度はやはり歴史を解体するものだと思えるし、その善し悪しや有効性は別にして、19世紀以来の近代的な態度と言ってみることもできる気がする。
あるいはこれは、過去に対する歴史家と建築家の態度の違いでもあるかもしれない。本のなかでは長谷川さん(と共著者の2名)は歴史を重要視する建築家であるということが大前提として定められているけれど、まずそこに疑いを持って考えたほうが、より深く歴史というものに迫れるのではないだろうか。別に歴史を重要視しなくてもよりよい建築をつくることはできるし、よりよく生きていくこともできる。今の世の中では歴史を重要視するのは無条件でよいことだと考えられがちだけど、そうやって歴史を絶対化させることにも問題はある気がする(例えば今日のトークでも、古ければなんでも残そうとするような最近の建物保存の運動に対して、建築を見る目がないのかという疑問が呈されていた。それは歴史を物質的に絶対化しようとすることへの批判だろう)。歴史を否定するようなモダニズムがこれだけ力を持ち得たのは、きっとそこに何かしらの真理が含まれていたからでもあるはずだし、そのモダニズムは現代においてもなお人々の思考形式や価値観の基礎になっている。歴史という概念について考えるなら、そういった単純に二元論で割り切れないダイナミックな状況を前提とすることに、大きな意味があるのではないかと思う。