アキ・カウリスマキ希望のかなた』(2017)をユーロスペースで観た。いつものカウリスマキ。難民を描いている点で前作の『ル・アーヴルの靴みがき』(2011)と共通するけれど、今回のほうが中心的な題材として、より現実味を帯びた描写がされている。ただ、そのことで映画がもつ社会的な意味は変わったとしても、観客個人個人に対する意味はそれほど変わらないような気もする。仮にいま難民状態である人がこの映画を観て、この映画がその人の心の支えになるとするなら、その人にとっては難民を描いていないカウリスマキの他の映画も心の支えになるのではないだろうか。むしろカウリスマキの映画が一貫してそのような性質を持っているからこそ、『希望のかなた』もまた人々の心に響きうるのではないかと思う。現実味が強いとはいえ、『希望のかなた』もカウリスマキらしく意図的に作為性を感じさせるファンタジーであり、その作為は生身の観客のほうを向いている(というか現実味を強くしているぶん、それに対する作為性もメッセージとして際立ってくる)。