国立新美術館安藤忠雄展−挑戦−」を観た(〜12/18)。安藤さんのこれまでの活動を包括的に示そうとする内容で、たいへんな物量と情報量。会場の混雑具合もあって、(微視的なレベルで)すべてを満足に見尽くすことは不可能だとさえ思える。一方、(巨視的なレベルで)その活動の総体や変遷を捉えようとしても、初期の住宅と近年の大規模建築とでは、建築のあり方や建築をめぐる環境の複雑さも違えば設計業務に対するご本人の関わり方も異なっているだろうから、作品同士がどう関係づけられるのか、どこに作家の核心があるのか、容易には判断できない。あるいは安藤さんは別格だとしても、建築家の仕事とは多かれ少なかれそうやって全体の輪郭がぼんやりとしていて、抽象化した理解を拒むものなのかもしれない(例えば画家や小説家の仕事と比較して)。
そんな原理的な分かりにくさのなか、ある程度の規模をもった最近の建築展で、体験可能な原寸模型の「分かりやすさ」が積極的に採用されているのは納得できる。とりわけ今回の安藤展では、実物以上の建設費で増築申請までして建てられた《光の教会》(1989)の原寸模型が話題になっていた(上写真)。しかしこの模型については、そうしたリアルさの追求にどうも違和感があって(その前段には、先の東京国立近代美術館「日本の家」展での《斎藤助教授の家》(1952)の原寸模型があるかもしれない)、展覧会が始まる前にツイッターで以下のツイートをしていた(僕は実際の《光の教会》は訪れたことがない)。


そしてその後、この疑問がなんとなく頭の片隅にあるなかで豊田啓介さんによる「フェイクの価値」()という論評を読み、それをきっかけに次のようなツイートをあらためて投稿したのだった。

豊田啓介さんによる論評。今回の展覧会用の原寸模型が「光の教会2.0」だとするなら、その時点で元の大阪の建物は「光の教会」から「光の教会1.0」に変質することになる。唯一無二だったはずの建築が、論理的には無数にありえるバージョンのひとつに位置づけ直される。
例えばメッカのカーバ神殿の原寸模型をパリのルーヴルのピラミッドの隣に建てたり、伊勢神宮の正殿の原寸模型をお台場のガンダムの隣に建てたりすれば、多くの人は直感的に「そりゃまずいだろ…」と思うだろうけど、同じ宗教建築の原寸模型である今回の光の教会が問題視されないのはなぜだろうか。
テロや右翼の標的にならないからだろうか。その複製行為によって虐げられるような信仰の存在を想像できないからだろうか。建築の著作権者が率先して行なっているからだろうか。建築関係者の間では、実物と比べた建物の違い(構造形式や施工の精度など)に難色が示されているようだけど、
むしろより積極的に実物と変えたほうが(例えば1/2の縮尺にしたり、すべて木で作ったり)、上述のような「アウラの喪失」の程度は軽かったと思う。ガラスを外した十字のスリットを指して「こちらのほうが理想だった」と言われることを、実際の教会に通う信者の人たちはどう受けとめるのだろうか。

今日実際に展示を観たところでは、上記のツイートを修正するような必要は特に感じなかった(そもそも上記のツイートは展示を観なくても書ける範囲で書いたつもりだった)。たしかに今回の原寸模型は、他の展示物と比べて段違いの「分かりやすさ」がある。しかし、やはりそれは上記の疑問を霧散してくれるような質の体験ではない。安藤さんはこの模型を作るに当たって「こんな途方もないことをやる人間がいるのか」と思ってほしかったということだけど()、残念ながら僕にはそういった印象も持てなかった。たしかに本来ならこれだけのものを現実に建てるのは「途方もないこと」であるはずなのに、そうは感じない自分がいる。おそらく今の世の中ではこうしたアトラクションを提供されることに、観客のほうが慣らされてしまっているのだと思う。そしてこのような建築の意味の希薄化は、なにも美術館という場や宗教建築というビルディングタイプに限らず近代以降の社会全般で進行してきたことであり、安藤忠雄という建築家はその流れに抵抗してきたのではなかったかとも思う。
ちなみに以前すこし触れた(8月7日)来年の森美術館の「建築の日本展」でも、《待庵》の原寸模型が作られるらしい()。ただし、こちらには別に違和感はない。実物が現存する点では《光の教会》と共通するけれど、《待庵》のほうは建てられてから長い年月を経て、すでに日常的な存在ではなくなっているし、宗教建築の永続性に対して、茶室はもともとが仮設的なもので、移築や複製が普通に行なわれてきた文化を持っているからだろうと思う。
下は会場の外から撮影した《光の教会》原寸模型の外観写真。