柴崎友香さんの『寝ても覚めても』(河出書房新社、2010年)が濱口竜介さんの監督で映画化されるらしい。2018年公開予定。

寝ても覚めても』は単行本刊行時に読み、下記の冒頭部分をこのブログで抜粋させてもらったことがあった(2010年11月16日)。高層ビルの展望台から大阪の街を見下ろすシーン。自分が今いる場所を相対化し、複数の時空間の関係によって世界を立ち上げようとする様は、柴崎さんの小説らしいと思う。

 この場所の全体が雲の影に入っていた。
 厚い雲の下に、街があった。海との境目は埋め立て地に工場が並び、そこから広がる街には建物がびっしりと建っていた。建物の隙間に延びる道路には車が走っていて、あまりにもなめらかに動いているからスローモーションのようだった。その全体が、巨大な雲の影に入っていた。
 だけど、街を歩いている人たちにとっては、ただの曇りの日だった。
 今は、雲と地面の中間にいる。(p.3)

 雲から海のあいだで、光は乱反射し、膨張して周りへとはみ出していた。あそこにいる人たちは、眩しすぎて目を開けていられないに違いない。あの場所まで何キロメートルあるのかわからないけれど、雲の影の下にあるこの街のほとんどの部分にいる多くの人たちが、あそこにあんな光があることを知らないと思うと、落ち着かない気分になった。(p.7)

二十七階分の距離を隔てた場所で、信号待ちをしている人たちがいて、いちばん先頭にいる女の人が、こっちを見上げているように見えた。一時間くらい前、同じ場所にわたしが立っていて、同じようにこのビルを見上げていた。だけど、下から上を見たときには、巨大な壁のような高層ビルの白い壁と黒く反射するガラス窓しか見えなくて、最上階のここに人がいるのはわからなかった。一時間前、そこには、交差点を見上げているわたしを見下ろしている人がいたかもしれない。(pp.7-8)

この文はその後何度か、下の山田脩二さんの写真と対比させながら、講義で参照することがあった。

  • 大阪、1974年(出典=『日本の写真家 39 山田脩二』岩波書店、1998年)

柴崎さんの文も山田さんの写真も、大阪の街を上空から俯瞰していて、街には厚い雲がかかり、海のほうは雲が晴れている様子を捉えている。もちろんこの一致はたまたまだけれど、もともと山田さんの写真も柴崎さんの文と似て、なにか一つの対象物を明快に撮るというより、複数の事物の関係によって世界を立ち上げようとするところがある(この写真1枚では分かりにくいかもしれないが、例えば多木さんが「山田さんの建築写真は、建築という「出来事」のかたちになる」()と指摘しているのも、そうした質を指してのことだろう)。
ただ、そういった共通性の一方で、上の文と写真は、その内容(大阪の街の俯瞰)がよく似ているがゆえに、文章と写真というメディア自体の違いもまたよく示しているように思う。つまり、一般に写真は文章よりもストレートに複数の事物の関係を捉えやすい(作為性を抑えて「ありのままの世界」を見せやすい)のに対し、文章は写真よりも自在に複数の時空間を関係づけやすい、ということがよく分かる。そしてそのようなメディアの特性を考えると、映画は写真と文章の両方の性質(あるいは中間の性質)を持っていると言えるかもしれない。濱口さんの映画『寝ても覚めても』はどんなものになるだろうか。