かわうそ堀怪談見習い

柴崎友香かわうそ堀怪談見習い』(KADOKAWA、2017年)を読んだ。

冒頭の「窓」という章からして、昨日書いた『窓の観察』掲載の「見えない」と同じ系譜であることを窺わせる。痕跡や兆候を湛えた怪談らしい描写は、qpさんの写真と響き合う。例えば下記。

[…]二階の窓が開いていた。なにかが動いた。猫、と思ったが、それは人の腕で、それから顔が現れた。(p.6)

青いマンションは、今は、幽霊マンションではないようだ。/公園に向いた部屋の、二階の窓にはカーテンが掛かっているし、三階の窓にはぬいぐるみのうしろ姿が見える。昼間で出かけているのか、誰かがいる様子はない。(p.169)

生ぬるい風が、皮膚を撫でた。ぞわり、と鳥肌が立つ。正面には、中学の校舎があり、三階の端の教室の窓がよく見えた。誰もいなかったはずの暗い窓の一つが開いて、カーテンが外にはみ出して揺れていた。/その陰に、誰かいる。(p.170)

怪談というためもあってか、これまでの柴崎さんの作品と比べ、全体のストーリーに対して場面場面の断片性が強く、現実のゴロッとした感触が印象に残る。一方で、ふつう怪談というのはそれなりに起承転結というか、個々の不可思議なエピソードがなんらかのクライマックスに収斂するという全体性をもつと思うのだけど(謎が解決されるか謎のまま残るかはともかくとして)、この小説は日常のなかで様々な不可思議な出来事が次から次へと起こるにもかかわらず、基本的にそれらは全体に回収されることがない。かといって、それぞれが独立した断片集(短編集)の形式になることもなく、あくまでひと繋がりの長編小説として書かれている。そうした出来事の頻度とバラエティを担う構造は読者に対して作品世界のリアリティをなくす方向に働くと思うのだけど、そこにはなにかしら意図があったのだろうか。映像的な描写が多いので、もしこの小説を映画に変換するならどうなるかなとも思った。