宇野重規保守主義とは何か──反フランス革命から現代日本まで』(中公新書、2016年)を読んだ。保守主義を歴史的に概観した本。政治学者である著者は、あとがきで自らは保守主義ではないと断っているけれど、以下の文にも窺えるように、現在的な問題意識において、ある種の保守主義に可能性を見ている(それは本誌「現在する歴史」特集()のスタンスとも通じる)。

 このように、もし保守主義という場合にバークに言及するならば、少なくとも、①保守すべきは具体的な制度や慣習であり、②そのような制度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず、さらに、③大切なのは自由を維持することであり、④民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革が目指される、ということを踏まえる必要がある。
 逆にいえば、①抽象的で恣意的な過去のイメージに基づいて、②現実の歴史的連続性を無視し、③自由のための制度を破壊し、さらには④民主主義を全否定するならば、それはけっして保守主義といえないのである。少なくともバーク的な意味での[9字傍点]保守主義ではない。(p.13)

 もし真にバークに従うのであれば、多様な制度、慣習、法によって形成されてきた憲法秩序は一朝一夕に成立したものではない以上、イデオロギー的にその全面的な転換を試みることには、あくまで慎重でなければならない。もし、それを変更するとしても、現行秩序に内在する自由の論理を発展させ、漸進的な改革をはかることが優先的な課題となるべきである。
 もちろん、時代ごとの部分的修正は否定されないが、その根本的な精神を変更するような試みは、あくまで保守主義の精神とは正反対のものとして退けられねばならない。このようなバークの教えに適う成熟した保守主義が、はたして日本に存在したことがあるのだろうか。(pp.189-190)

ただ僕自身は、この本で定義されている保守主義フランス革命以降の政治的態度を伴うもの)よりも、どちらかというとその源泉となるような、もっと日常のレベルで、いつでもどこでも誰にでもありうる保守思想のほうに興味がある。この本に出てくるなかで僕が多少なりとも読んだことのある2人(T・S・エリオットと福田恆存)についての記述をみても、あくまで俯瞰的な視点から歴史上の相対的な位置づけをするという意味合いが主になっていて、それぞれの人物の思想そのものが内側から生きている感じがしない(そのことは単に新書や概説書という本の形式が要請するだけでなく、保守主義ではないと自認する著者の思想にも関係しているのかもしれない)。個人的な読書体験としてはその辺りに物足りなさも感じつつ、しかし知識として得られるものは少なくなかった。本書で言及されていた著作のうち、下記の4冊を区立図書館のホームページで予約した(すべてきちんと読むとは限らない)。

以下メモ。

 おそらく、フランス革命以前にも、歴史における断絶と呼ぶべき瞬間は存在したであろう。しかし、多くの場合、その断絶をむしろ一時の断絶として扱い、さらに過去に遡ることで、歴史の連続性の確保につとめてきたはずである。これに対し、フランス革命は歴史に対するまったく新しい態度を示した。断絶をむしろ肯定的に捉え、これをもって新たな原理によるゼロからの再出発として捉えたのである。
 過去に回帰すべき範を求めるのではなく、抽象的な原理に基づいて未来へ跳躍すること──バークが震撼したのは、そのような事態であった。(p.54)

 人間の思考とは、長い時間をかけて漸進的に発達したものであり、必ずしも合理的に設計されているわけではない。このように考えるバークにとって、啓蒙思想家たちは、ひとたび偏見や迷信を打破すれば、後戻りすることなく、理性がおのずと支配的な地位に立つと考えた点で、根本的に誤っていたのである。(p.58)