先月(12月17日)、序文だけ読んで言及したスーザン・ソンタグの『この時代に想う──テロへの眼差し』(木幡和枝訳、NTT出版、2002年)を一通り読み通した。以下、メモ。常識と現実の感覚に根ざした執拗な真実への探求と、それを正確な言葉にする意志。それは別に比べなくてもいいかもしれないけど、アーレントヴェイユの言葉に対する印象と重なってくる。

●ここで再び、若者たちとあなた[大江健三郎]との会話について考えています。理想主義的な主張に呼応しやすい若者たちの素晴らしい感受性を奨励するにしても、それならば同時に、人間の本性に関する、他の言葉に置き換えることのできない認識を指標として、さまざまな原理的なことを検証する必要があることを、彼らに教示してゆかなければならないと思うのですが、いかがでしょう。
 『ヒロシマ・ノート』で、こうお書きになっています。「原爆をある人間たちの都市に投下する、という決心を他の都市の人間たちがおこなう、ということは、まさに異常だ」。
 異論を唱えてもよろしいでしょうか。そこには悪意があるのです。残念ながら、異常なのではなく!(「未来に向けて──往復書簡」pp.141-142)
●あなた[大江健三郎]はおっしゃっています。次の四半世紀に日本に「新しい人」が現われなければならない。自分もそのなかに入るとおっしゃる「古い人」によっては日本の窮境を乗り切ることができないだろうからと。「新しい人」の出現をめぐる数々の予言(チェ・ゲバラの予言がまず思い浮かびますが、この二世紀のあいだに「新しい人」を提唱した人は相当な数になります)はみな、「新」は「旧」の改良だという前提に立っています。敬意をこめて伺います、そんなに確信してかまわないのでしょうか。(「未来に向けて──往復書簡」p.151)
●おおかたの人々が「平和」という言葉で言わんとしていることは、勝利ではないかと思える。自分たちの側[6字傍点]にとっての勝利。だが、ある人々にとっての勝利が「平和」であるなら、その平和は、他の人々[4字傍点]にとっては敗北を意味する。
 原則として平和は望ましいものだが、もし平和維持のために、正当な主張を放棄しなければならないとしたら、しかもそれを放棄することが受け入れがたいことだったとしたら、次にとる道は何だろう。もっともありうるのは、総力戦にいたらない程度の手段で戦争に打って出ることだろう。だが、そうなれば、平和への希求は欺瞞的なものと映るか、さもなくば、さほど切迫した希求としては感受されない。(「エルサレム賞スピーチ」p.199)
●みずからは十分な直接的な知識をもっていない事柄について、意見を公に広めることには、何か卑しさを感じる。自分の知らないこと、あるいは拙速な知識しかもたないことに関して語ることは、コメント屋への堕落だ。(「エルサレム賞スピーチ」p.213)