日本工業大学大学院「建築文化リテラシー」第9回と第10回。1コマ目は映画に関する前回(11月24日)の宿題の講評。事前に文章に朱字を入れて返すとき、メールで全員に次のようなことを伝えた。

全体として、自分の手持ちの知識や認識に作品を引き寄せて、作品のある一面を解釈しようとしているように思えました。しかし大切なのはそうではなく、自分のほうから作品に近づいていく姿勢です。それは映画批評に限らず、ものごとを見る基本だと思います。

これは未熟な学生の文章だからということだけでなく、プロの物書きや研究者にとっても無視できない問題だろう。僕自身、自分がどうにも近づいていけないような対象に関する執筆や編集の依頼を受けたときには、なにかしらうまい切り口を考えて、その対象をさばいて見せようとするかもしれない。それはそれで必ずしも良くないこと、あるいは無意味なこととは思わないけれど、作品の本質や作品の存在に近づく行為ではないという自覚はしていたほうがいい。今回は慣れない映画批評ということもあっただろうし、馴染みのない古い白黒映画、しかも社会的な問題意識が強い作品(『怒りの葡萄』)で、なおかつ建築の授業で課題として書かされたわけだから、主体的に向き合いにくいのは納得できる。ただ、自分から近づけばなにごとかを返してくれる作品でもあると思う。
2コマ目は1コマ目の話と連続させながら、『建築と日常』No.2(特集:建築の持ち主)()を引き合いにして、建築と所有の話。そこから建築の保存の話に続けて、このまえ(11月19日)学会のシンポジウムで話した京都会館と、それから歌舞伎座)のことなども話題にした。京都会館については、今日のほうが聴く人の数も少ないし、距離も近いのに、あまりうまく喋れた気がしない。あるいは人数が少なく距離も近いからこそ、ほとんど同じ内容の繰り返しでも、語るのが難しくなったのかもしれない。