15年くらいぶりに坂口安吾の「日本文化私観」(『堕落論』角川文庫、1957年)を読んだ。そもそもここで主張されている内容は、完全に肯定したり完全に否定したりするべきものではなく、あくまで程度が問題になるのではないかと思うのだけど、ではその程度が妥当かどうかという判断は、感覚的なこととして、時代その他の状況にかなり依存するような気がする。1942年初出のこのエッセイが書かれて、もう70年以上が経っている。論理は納得しえないこともないのだけど(このまえの京都会館の問題とも重なるところはあると思う)、安吾の強い言葉は今一ぴんとこない。

 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。