2月に代官山蔦屋書店で開催されたトークイベントのテキストが、10+1 websiteで公開になった。

香山壽夫×長島明夫「建築と言葉の関係について──映画『もしも建物が話せたら』から考える」

[全体構成]映画のなかの建築/建物は本当に話すのか?/現実のものごとから乖離する言葉/「都市」と「景観」という言葉の使われ方/ルイス・カーンの「沈黙の声を聞く」/京都会館の改修計画をめぐって(約15000字)

もともと「建築と言葉」というテーマで香山先生とトークをすることになった時点で、「建築と歴史」をテーマにした『建築と日常』No.3-4()のインタヴューの続編的に、テキスト公開まで持っていきたいと考えていた。結果、先生による映画の感想に始まって様々な話題を含みながらも、全体に通底するものがあり、うまくまとまったのではないかと思う。テキスト化に際しての編集も多少している。たとえば「現実のものごとから乖離する言葉」として、イベントでは近代という時代と絡めながら「自由」と「平等」について話したのだけど、それはうまく説明できずに冗長になってしまったので、テキストでは「平和」を例に短く言い換えた。香山先生が最後の締め括りの数行を付け加えてくださったのも、非常によかったと思う。
今回のテキストでまとめられた言葉は、先生も僕も、それなりの信念に基づいたものだと思う。ただ、ロームシアター京都(旧京都会館)の改修問題については、やはり多くの人が共通の理解を得るのは難しいのかもしれない。僕自身、イベントの半月後に訪れてはみたけれど(3月2日)、問題の全体について絶対的な認識を持っているとは言いがたい。
数年前、あれだけ過去の建築を敬愛される香山先生が、京都会館の改修計画に加担したことを訝しく感じた人も少なくなかったのではないかと思う。僕もそれがどういうことなのか、うまく把握できずにいた。ただ、2年ほど前からまた何度か先生と(京都会館のことに限らず)話をさせていただくなかで感じられたのは、今回の香山先生の一連の態度が、まさにテキストの最後に付け加えられた言葉のとおり、「生き方そのものの問題」と関わっているということだった。京都会館の問題の前提にある先生の建築観や建築保存観は、たとえば次の言葉に示されているような歴史観や人間観と通底しているように僕には思える。

例えば終戦のたびに戦争を語り継ごうということを言い出す人たちがいますが、こんな空々しい言葉はない。語り継ぐことは不可能です。不可能というだけでなく、あれはみんなそのたびに忘れてきたからこそ、人類は今でも朗らかに生きている。

  • 香山壽夫インタヴュー「歴史としての建築」『建築と日常』No.3-4、2015年、p.17

この言葉をインタヴューで最初に香山先生の口から聞いたとき、さすがに僕も「ん?」と思ったのだけど、その後の編集作業の過程で反芻し、誌面ではこの言葉と関連させて、吉田健一の「戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」()を引用したのだった。つまり観念的な立場に立って過去を物質的に絶対化・永遠化しようとするよりも、現在そのものをよりよく生きようとすること(そのためには必然的に過去と親しむことも求められる)が、結果として(歴史のなかで)よりよく生きることに繋がるという思想。香山先生の態度にはその生き方の実践としてのリアリティがある。