2月14日、代官山蔦屋書店での香山先生とのトークイベント「建築と言葉の関係について」()では、『もしも建物が話せたら』から「建物の声に耳をすます」という流れで、先生が改修設計を手がけて1月にオープンしたロームシアター京都(旧京都会館前川國男設計、1960年竣工)のことも話題にしたい。
京都会館の改修計画には批判や反対運動も多かったけど、結局できあがったものに対する評価はどうなっているのだろうか。インターネット上では、反対意見を表明していた組織や個人からの総括的な見解は今のところ提示されていないように見える。僕自身は、例えば昨日の日記で書いた鎌倉の近代美術館と比べても、建物や場所に馴染みがないので評価しにくいのだけど(馴染みがないものについては黙っておくという態度は、前に大相撲をめぐって書いたように()、文化的な意味でも大切だと思う)、ともかく社会的な意義を考えても、なんらかのまとめはあってしかるべきという気がする(もちろん今度のイベントがそれをする場というわけではなく)。以下、計画時の代表的な批判や反対運動の言葉からの抜粋。

[…]この度の新聞報道によりますと、オペラを上演可能にするためという機能上の目的から、第1ホールの舞台の奥行と高さを現況の2倍の大きさに改築するという大規模な計画になっております。このまま計画が進めば、建築的な価値や周囲の景観に対する落ち着いたたたずまいが大きく損なわれる危険性を否定できません。本会としましては、その点を特に憂慮する次第です。それは、結果的に建物の歴史的な価値を減じ、そこに託されていた環境と調和するモダニズム建築への手がかりを失い、各時代の文化的資産を大切にしてきた京都の歴史にとっても将来への禍根を残すものになると考えます。

 今後の計画立案におかれましては、これまで守られてきた建築的価値、歴史的価値、都市環境的価値を十分に尊重していただきますよう、ご理解を賜りたく存じます。
 貴下[京都市]におかれましては、この貴重な建物の持つ高い文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解いただき、このかけがえのない文化遺産が永く後世に継承されますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第です。

[…]このままでは、建物の価値は壊滅的に失われ、10階建てのビルに相当する巨大な舞台の建設によって落ち着いた景観も破壊され、設立時に謳われた市民のための公会堂としての性格も失われてしまいます。これは京都の未来を左右する歴史的な問題です。

この辺りの言葉から、建築と言葉の関係について考えてみることもできると思う。例えば今回の計画で、結果として京都会館は「建築的な価値や周囲の景観に対する落ち着いたたたずまいが大きく損なわれ」たと言えるのかどうか。「建築的価値、歴史的価値、都市環境的価値」は「十分に尊重」されたと言えるのかどうか。「かけがえのない文化遺産」は「後世に継承され」ていると言えるのかどうか。上記のそれぞれの組織およびそれに所属する個人は、自分たちが発した言葉と、現実にできあがった建築との関係を、どう認識しているのだろうか(と書いて気づいたけど、僕もDOCOMOMO Japanのフレンド会員だった)。
また、「京都の歴史にとっても将来への禍根を残す」、「京都の未来を左右する歴史的な問題」と言われるのが一体どの程度のことなのかも、決して自明ではない。京都の歴史を引き合いに出すということは、少なくとも平安京設立(794)以来の数多の出来事と同じ地平で、この京都会館の改修計画を見るということだろう。それを可能にする歴史観を僕自身は持たないけれど、例えば戦後に限っても、京都タワー(1964)や京都駅(1997)の建設、あるいは金閣寺の焼失/再建(1950/55)といった出来事よりも、今回の京都会館の改修計画のほうが歴史に対する影響は大きいと言えるのだろうか。
また別の例を挙げれば、現在の新国立競技場の計画と比べて、どう位置づけられるのか。京都会館の保存を訴えた鈴木博之さん()は新国立競技場のデザイン・コンクールの審査委員として計画推進派だったし()、日本建築学会は一連の問題について沈黙を続けている。このことはなにを意味するのだろうか。規模や話題性としては京都会館よりもはるかに大きい新国立競技場の問題だけど、再開発に際しての建築的・歴史的・都市環境的な危機意識は、(少なくとも鈴木さんや日本建築学会にとっては)京都会館のほうが上だったということでよいのだろうか(京都会館が日常的に身近だった人たちにとって、新国立競技場よりも京都会館の問題のほうが重要だったろうことはもちろん理解できる)。それとも新国立競技場の問題では、建築的・歴史的・都市環境的な価値よりも(それぞれの個人や組織が考える)別の価値が優先されたということだろうか。
歴史や文化が人間にとって大事であることは分かっているつもりでいる。けれどもそれをより具体的に、個々のものごとの相対的な関係のなかで捉えようとするとよく分からない。もちろんそれらは、言葉のレベルで厳密に比較できるものではないだろう。しかし一方で、完全に断絶して考えることもできないからこそ、この現実の世界のなかで複雑に絡みあう、人間の歴史や文化の問題でありえるのだと思う。そして建築と言葉は、どちらも過去からの連続のなかで人間が生きる環境を形成しているものなのだから、建築(都市的環境)を大事に思うなら言葉(言語的環境)も自ずと大事に思わないと、辻褄が合わないという気がする。