引込線2015

この前(9月22日)イベントに参加した「引込線2015」の書籍が届いた。

A5判488ページの大部。展覧会のカタログとしての部分がp.10からp.123まで、展覧会とは別個のテキスト22本が収められているのがp.124からp.469まで。とりわけ後半のヴォリュームが大きい。以下、それにたじろいだ僕が関係者の方と交わしたメッセージからの抜粋。

感想も難しそうですね…。たぶんこのカタログに感想が言いにくいのは、各論における対象の専門分化とともに、このカタログの全体(全一性)が掴みづらいからだと思います。編集のクレジットには櫻井さんの名前が載っていますが、このカタログの全体は櫻井さんのなんらかの思想に根ざして、櫻井さんの責任において、ある全体像がイメージされながら編まれたのでしょうか?

たとえば引込線の展示のほうなら、たとえ参加作家がお互いに相容れない作家性を持っていたとしても、もしそれぞれの作家があの場所に真摯に反応して創作をしたなら、各作品のあいだに自ずと有機的な関係性が生まれるのではないかと思いますし、それが展覧会としての「全体」(多様性を含みつつの全一性)につながるような気がします。
ただ、この書籍の批評パートのほうは、少なくとも専門外の私にはなかなかそういった「全体」は感じづらいのではないかなと…。もちろん全体を通読すれば、それぞれの論文同士のあいだになんらかの関係は感じるでしょうが、そういう意味での「あいだ」は、それこそネット上の無数のテキスト群や学会誌に投稿されたテキスト群にも生まれうるものではないでしょうか。
なんだか読みもせず絡んですみません(笑)。『建築と日常』はまさにワンマンで、かつ毎号ワンテーマの特集主義でもあり、引込線のありかたと対照的なので、個人的に引っかかってしまうのだと思います。たとえば阿部さんが褒めてくださったNo.2の所有年表ですが、以前海外の大学から出版物で飜訳掲載したいと言われたことがありました。ありがたいお話でしたが、あの年表をあの特集から引き剥がして、しかも外国語に翻訳するというのは、感覚的に成り立たないという気がして、断ってしまいました。あの年表に限らず、『建築と日常』の各企画には多分にそういった性質がありまして、企画としては独立したページだとしても、それをそこだけ別の単行本に収録するようなことを考えると、植物を大地から引っこ抜くような、建物を基礎ごと別の土地に移すような、違和感を感じてしまいます。こうした感覚は重苦しく面倒なものだと思いますが、あるいは引込線という運動は、そうした感覚(固有の場所に根を持つこと)こそ重要視しているのだと思っていました。一方で、引込線の書籍に収録された各テキストは、もっとユニバーサルで独立したもののように見えます。

僕が上で書いた「根を持つこと」というのは、昔ながらの紋切り型で「切れば血が出るような」とも言い換えられるかもしれません。西洋人だろうが日本人だろうが混血だろうが、宿無しだろうが亡命者だろうが、生きていれば血が流れるというような。「日常」に対しての興味もそれと重なるような気がします。