先週、安全保障関連法案が成立した。なにか書こうと思っていたのだけど、結局なにをどう書いていいのか分からない。インターネットを眺めていると、安保法案関連(に限らずだけど)の言葉が多すぎるように僕には思える(おそらく、逆にもっとたくさん言葉を発しなければならないと考えている人も少なくないのだと思う)。一連の政治に反対や批判をするのでも、もっと慎重に言葉に心を込めないと、現実的な効果には繋がらないのではないだろうか。そのあたりはデモと言葉(文字)が異なるところで、デモはどんなかたちであれ参加することから意味が生まれうると思うけれど、言葉の場合、安易な紋切り型や勢いまかせの雑な言葉はむしろ総体としての意志をぼやけさせてしまう気がする。それぞれが現実にくさびを打ち込むような、石垣を一つずつ積み上げていくような、確かな言葉が発せられるべきで、それ以外の言葉はないほうがすっきりする。
そのときの言葉は必ずしも専門的に高度な内容である必要はないし、単一の意見に集約されなくてもいい。要は個々の人間としての実感がともなっているかどうかだと思う。そもそもそのような生きた言葉を基盤にした世の中ならば、多様性を含む動的な秩序のなかで、ある限度を超えるひどいことは起きないのではないか。少なくとも今回のような法案が生まれることはなかっただろう。言葉の空疎化については「現在する歴史」特集の巻頭言(→PDF)でも触れたけど、以下50年前の対談で言われていることの連続として現在の状況が感じられる。

小林 […]それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。そういうことをしている人は本当に少いのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。[…]
岡 ありがとうございます。どうも、確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない。
小林 確信しないあいだは、複雑で書けない、まさにそのとおりですね。確信したことを書くくらい単純なことはない。しかし世間は、おそらくその逆を考えるのが普通なのですよ。確信したことを言うのは、なにか気負い立たねばならない。確信しない奴を説得しなければならない。まあそんなふうにいきり立つのが常態なんですよ。ばかばかしい。確信するとは2プラス2がイコール4であるというような当り前なことなのだ。
 文士は、みんな勝手に自分の思うことを書きますよ。その点では達人です。これは一種の習性のうえでの達人なんですな。[…]もしもみんなが、おれはこのように生きることを確信するということだけを書いてくれれば、いまの文壇は楽しくなるのではないかと思います。
岡 人が何と思おうと自分はこうとしか思えないというものが直観ですが、それがないのですね。
小林 ええ、おっしゃるとおりかも知れません。直観と確信とが離れ離れになっているのです。

例えば下のサイトの取り組みは、言葉というより情報やデータといったものだろうけど、現実にくさびを打ち込むような、石垣を積み上げていくような、相手の首根っこを掴まえるような、確かさを感じる。客観的な情報であっても、そこに制作者の実感がともなっているか否かで、その情報の生き方が変わってくる。

また下のような動画も、言葉(文字)を超えるものだろうけど、ある現実が凝縮された粒のような存在として、ストックしておける気がする(動画をたくさん見ているわけではないので、もっと適当なものもあるかもしれない)。