先日(7月16日9月5日)予告した「引込線2015」のトークイベント「彫刻と建築──利部志穂の制作世界から」(利部志穂・長島明夫・峯村敏明/司会=阿部真弓)が無事終了。例のごとく、終わったトークの内容はあまり覚えていないけれど、依頼があったとき心配したほどの場違いなことにはならなかった。門外漢として一応の役目は果たせたのではないかと思う。「もしミケランジェロの彫刻の一部を僕が作ったら台無しだろうけど、利部さんの彫刻の一部を僕が作ってもバレなそうな気がする」と言ったのは、イベント中だったろうか、打ち上げで飲みながらだったろうか。普段の建築系のイベントよりも、専門外のよそ者として、わりと気やすく実感をぶつけてみることができた。それは他の登壇者の方々や会場の大らかさにもよるのだと思う。
念のために書いておくと、上記の発言はべつに利部さんの作品を貶めるものではなく、例えば建築なら竣工後に作品が他者によって改変されることは当たり前にあるという文脈で、作品の自律性や完結性や全体性といったことを問題にするような意図があった。イベントの冒頭、僕に与えられた発表時間では、「それぞれの物の抽象化(意味の漂白)とそれらの組み合わせ」、「異なる体系の物同士のあいだに新鮮な関係が生まれる」、「決して奇抜でなく、多様で曖昧で動的な調和状態(開放系の秩序)」といった点で、坂本先生の《代田の町家》(1976)と利部作品に対する僕の興味の重なりを述べた。
《代田の町家》を引き合いに出したのは、それを扱った『建築と日常』No.3-4を宣伝する目論見もあってのことで、イベント終了後には会場で雑誌の販売をした。「美術作家と批評家による自主企画展」を謳っている「引込線」だけれども、僕自身は依頼を受けたから参加したわけで、決して自主的ではなかった。しかし雑誌の販売行為は誰に頼まれたわけでもない、まったくの自主にほかならない。だからそれをすることで、「引込線」への参加が自分にとって初めて自主的なものになる。2往復分の交通費と打ち上げの飲食費を足したくらいの売上げはあった。