『群像 日本の作家19 大岡昇平』(小学館、1992)という本に、いろんな人が大岡昇平やその作品について書いた文章が集められていて、いくつか拾い読みをした。大岡昇平は歳の近い吉田健一や福田恆存とも親交があったらしく(鉢の木会)、彼らによる評論も載っていて、『野火』以外の作品も読んでみたくなった。以下メモ。

 おもふにストイシズムほど矛盾に満ちた思想はない。ストイックたちは徹底的に唯物論者となることによつて、極端な精神主義者に自己を昇華せしめた。それは論理的であり合理的であることによつて、かへつて主観的となった大岡昇平の文体と照応する。
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このやうに自他にたいして苛酷なまでに意味づけを拒否しようとするストイックたちの態度には、よく考へてみれば、意味づけにたいする狂的といつてもいいほどの祈求が隠されてゐる。意味づけをこととする精神の存在を抹殺しようとするのは、決定的な意味づけをなしうる精神の確立を願ふためであり、また論理によつて主観をできうるかぎり抑圧しようといふのは、論理のおよばぬところに純粋な主観をしぼりださうといふこころみにほかならない。したがつて、論理は精神の敵であると同時に、それを守る防壁でもありうる。大岡昇平の精神にたいする文章の役割がそれであつた。

 「野火」の舞台が再びフィリツピンの戦場に戻つてゐるのは、さうして得られるどぎつい材料で我々の好奇心を惹く為ではない。屍体や戦場といふものが我々の日常の感受性にとつては異常であつても、それが現実となつた時は、と言ふのは、何よりもそれが小説の現実を作り出す作家の材料になつた時は、最も平凡な事実の親しさを帯びることは、大岡氏が既に「俘虜記」で我々に明かにしてくれた所である。どんなに奇異な事実だらうと、我々が小説の世界を信じるといふ異常には及ばないのである。
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その主人公の行動を辿つて行くならば、その性格と同様に、我々にとつて不可解なものは何一つないのであつて、それが余りに平凡なことばかりであるのが却つて我々に、我々自身を含めた人間といふものが如何に異常な存在であるかといふことに気付かせてくれる。
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 「野火」では他の人間的な条件は凡て揃へてあつて、他の人間の存在にさへもこと欠かない。併し通常の生活では、自分以外に人間がゐることが共同生活を実現して、我々の眼を我々の内部から外に向ける結果になるのであるが、「野火」の主人公が置かれてゐる状況では、他人の存在も主人公を彼一人の世界に益々追ひやるばかりである。その時何が起るか。それが「野火」で行はれてゐる実験である。

やはり吉田健一の文章から引用をするのは難しい。