日本人力士の優勝が見たいだとか、日本人の横綱の誕生が待ち望まれるだとかいうことはもう何年も前から言われ続けていて、そうした発言が外国人力士を差別する差別主義や排他主義であるという非難や批判もしばしば見受けられる。その批判の理屈は分からなくない。けれどもそういう批判をする人たちが、例えば2012年の5月場所の旭天鵬(モンゴル出身だけど日本に帰化した)の優勝(2012年5月20日)を引き合いに出して「旭天鵬は日本人として認めないのか!」というような論調をとるとき、非常に観念的なものの捉え方だなと思う。
日本人力士の優勝&横綱待望論を公言する代表的な人物の一人として、現在の大相撲解説の第一人者である北の富士(第52代横綱)が挙げられるだろう。おそらく北の富士旭天鵬の優勝を「日本人の優勝」だとは思っていない。しかしそれが差別主義で排他主義かというと決してそんなことはなく、北の富士にとって旭天鵬の優勝は素直に喜ばしいことだったろうし、「日本人力士の優勝が見たい」という北の富士の言動で旭天鵬が傷つくようなこともないと言い切れる。それはある程度大相撲に馴染みのある人にとっては常識的感覚で直観されることだ。いったい日本人待望論を批判する人の誰が(例えば)北の富士以上に相撲の文化に親しんで、現実の個々の外国人力士のことをよく知り、その存在に敬意を払っているのか。批判者が用いる理屈とそうした現実とのずれが気にかかる。
確かに「平等」という概念が今の世界のなかで重要であるのはよく分かる。僕自身もどちらかと言えば「平等」に対する意識は強いほうだと思う。しかし「平等」はあくまで観念であって、現実に先立つものではない。まず人々の日常があって、それがなにごともなく送られている限りにおいては「平等」などという概念はなんら必要ない。「平等」が必要とされるのは、その日常がままならなくなったとき、日常を保守するための要素として現実から抽出される場合においてだろう(もちろんそのときに抽出されるのは必ずしも「平等」ばかりではなく、例えば「自由」や「正義」その他の概念や、それらの複合であったりもする)。もしも「平等」が絶対的な原理として現実に先立つ世界なら、例えば「女性が大相撲に参加できないのは差別だ」という理屈も通るようになる。
ところがややこしいのは、北の富士を始めとするまともな相撲関係者や相撲愛好者とは別に、実際に差別的・排他的な意識で日本人待望論を主張する人もたぶんいるということであり、北の富士その他の言動が多少なりともそうした連中の力になっているかもしれないということだろう。そのことはどう考えればよいだろうか。やはりまともなほうの人たちも、日本人待望論について口をつぐむべきなのか(まだ断言はできないけれど、僕はどうもそうではないような気がする。もちろん今のモンゴル勢の強さや外国人力士の一般化など様々な現実の状況を前提として。曙や小錦の時代だったら話は別だ)。
少なくとも大切なのは、まともなものとそうでないものと、そもそもその境目も自明ではない両者を、しかし一括りにして捉えてしまわないことだろう。それらを悪ないし敵と一括りにして対象化し、断罪してみせるような様は、それ自体世の中を貧しくするし、その批判対象であるはずの差別主義や排他主義と根底で通じることにもなると思う。とりわけ現代のインターネット環境では、誰もが短文で容易に他者の批判(自己主張)ができるようになっている。というか短文のほうがむしろ自然に感じられるようなシステムになっていることで、発言の対象や文脈や論理や自身の立ち位置をあやふやにしたまま公に対して断定的な言葉を発しても、それが不誠実な態度であるとは思われにくくなっている。そんななかで自分の批判的振る舞いを際立たせようとすると、敵は大雑把に一括りにして、なるべく大きくて強固なものに見せてしまいたくなりやすい。
新国立競技場とザハ・ハディドをめぐる言葉が行き交うツイッターの空疎で殺伐とした空間を眺めていて、以上のようなことをあらためて考えた。