ある文芸評論家が書いたフィッシュマンズ論を読んだ。それ自体にはあまり感心しなかったけれど、このまえ(4月8日)書いたようなことも踏まえて、あらためてフィッシュマンズの歌詞を言葉として読んでみたいという気になった。これまでフィッシュマンズの音楽はわりと全一的に体験していたというか、その一要素としての歌詞をことさら考えてみることはなかった(参考:2011年4月27日)。しかし普通に考えて、歌詞は歌詞でその有機的な音楽の総体を成り立たせるためのエッセンスがあるだろうし、それを読む僕のほうとしても、単に字面だけで読むということはもはやできず、その言葉は音楽の総体とともに現れてくる。
いちおうメモとして書いておくと、今日読んだ評論については(ところどころでポジティヴな刺激も受けつつ)以下のようなことがよくないと思った。

  • 文体や「文学的な」比喩表現の軽薄さ。(フィッシュマンズその他の大衆音楽にあるような)切実さのなさ。
  • 比較する必然性が感じられない他のミュージシャンや過去の文学者を持ち出してきて、対象(フィッシュマンズ佐藤伸治)を相対的に位置づけたような感じに見せているところ。
  • 既往の評論やメンバーへのインタヴューを、自分の文章を進めるために都合よくパッチワークしているように見えるところ。

要するにフィッシュマンズの音楽そのものに迫ろうとする力に貫かれている感じがしない(文芸評論家だから音楽の専門的な面はよく分からない、というのとは別の話で)。このフィッシュマンズ論は、いわゆるJポップとして括られるような他のミュージシャン何組かの評論と一緒に一冊の本にまとめられているのだけど(他は大部分未読)、そうして本にまとめるという目的のための手段として、あるいは「文芸評論家による現代Jポップ評論」を成立させる構成要素の一つとして、それぞれの音楽が扱われているように思えてしまう。けれどもフィッシュマンズであれ何であれ、個々のミュージシャンの音楽(大衆音楽)を自分のものとして切実に聴いてきた人にとって重要なのは、そのような相対的な時代の見取図や文芸評論の形式性や権威性ではなく、もっとそれぞれにおいて固有の直接的で絶対的なものに違いない。