赤瀬川原平の芸術原論展

千葉市美術館「赤瀬川原平の芸術原論展──1960年代から現在まで」を観た(〜12/23)。この前のSDレビューの展評では、建築を展覧会というメディアで表現することの難しさに触れたのだけど、割と似たような意味で、赤瀬川さんの活動も大々的な回顧展という形式とはあまり相性がよくないのかもしれない。赤瀬川さんの活動は基本的にその時その時の「今、ここ」を前提にし、その状況においてどう振る舞うかということが作品の質を決めているように思う。だから作品をその個々の状況から引き剥がして等価・並列(時系列)に配置し、それを鑑賞者が順々に見て回るという回顧展の形式は、それぞれの作品の制作時に無意識的にでも想定されていた作品体験の仕方とはまったく別物になる。もちろん充実した内容の貴重な展覧会には違いないのだけれども。
かといって過去の作品にアプローチするのにじゃあどうすればよいのかと聞かれてもよく分からない。「今、ここ」において作られたものを別の「今、ここ」に繋ぐこと、あるいは復活・再生させること。それこそ赤瀬川さんが宮武外骨を紹介したようなやり方はありえるかもしれないけれど(『外骨という人がいた!』の表紙では赤瀬川さんが外骨に化けている)、それは少なくとも個人の作家の回顧展という範囲は超えている。
ショップにあった分厚い図録は、パラパラとめくってみて買わなかった(1995年の名古屋市美術館赤瀬川原平の冒険──脳内リゾート開発大作戦」展の図録を持っている)。その代わりというか、展覧会の開会直後に開かれたトークショーの記録が掲載された『週刊読書人』が売っていて、その内容が興味深かった。

 松田 荒川さんと赤瀬川さんは高校の同級生ですよね。同じ美術部で一緒に絵を描いていた。でも荒川さんのことは嫌っていましたよね。
 藤森 荒川さんは社会の動きとかもよく見て、自分をどう売るかに関して相当熱心な人だった。仲間でアメリカに最初にいったのも荒川さんだった。自己マーケティングに熱心な美術家は最近の日本にも大勢いますが、赤瀬川さんはそういう人たちを本当に嫌っていた。

こういう言葉は、あまりメディアに載せたりブログで引用したりすべきではないという類のものだろうけど、おそらく藤森さんも松田さんもそのことを当然認識していながら、それでもなおというつもりで紙面に載せたのではないかと思う。載せてもらって僕はよかった。なにかグッと来るものがある。赤瀬川さんが「今、ここ」に対応しながら作品を作っていったというのも、この辺りのことと関係していそうな気がする。あらかじめ確固たる自分、あるべき自分、表現すべき自分が存在していたわけでなく、その時その時で自分を取り囲む世界にどうしても反応してしまう繊細さ、あるいは世界を切断できない優柔不断さ。

忘れられない光景がある。路上観察の発表会を浅草でやった時、終った後、さてどこかで一杯という段になると、観衆として来ていた美学校の生徒さんたちが赤瀬川さんの後をゾロゾロと付いてくる。終った後の一杯は発表会に関係したオトナたちがやるのであって生徒さんたちに来られても困るのだが、赤瀬川さんはそうした客観的には困った状態をそのまま受け容れて、シッシッぽい態度は一切見せず、かといってその状態を解決するわけでもなく、ただじっと歩いている。夕暮れ時の浅草の裏街を往くいかつくともおだやかな表情をした一人の人物と、それにすがるように従う気弱そうな若者の一団。この光景を私はイライラしながら脇から眺めていて、赤瀬川さんの一面を見たように思った。ハイレッドセンター、ニセ札、馬オジサン、アカイアカイマッカナ朝日的な攻撃的前衛イメージとはまるで違うやさしさ。ダメなヤツ、困ったヤツでも、何ら判別ということをせず受け容れてしまうやさしさ。“来る者はこばまず”と言ったという西方の聖人のようなやさしさがある。

情景が目に浮かぶ。