遠藤新設計の加地別邸(1928)を見学した。去年《代田の町家》の見学会()でお世話になった住宅遺産トラスト関連の企画で、10〜11月の土日祝日に限り、有料で公開されている。一見してフランク・ロイド・ライト風の、極めて密度が高い別荘建築。現代では考えられないほど手が込んでいる。

加地別邸は僕が生まれ育った町に建っているというか、実家のマンションの敷地を出て徒歩20秒くらいのところにあって、5年ほどまえ、近所を散歩したときの日記にもこの建物のことを書いていた(2009年12月31日)。子どもの頃から馴染んできた故郷の空間の広がりに、(僕にとっては今日初めて)近代的な凝縮した建築空間が挿入されることの新鮮さ、とともに、もちろん実際には僕が生まれるより50年も前からこの場所に建ち続けてきたわけだから、その時間を想像すると不思議な気持ちにもなる。ぜひこのまま建ち続けてほしい。

加地別邸から海のほうに歩いて数分の山口蓬春記念館(旧山口蓬春邸、増改築:吉田五十八設計、1953/57)では、「山口蓬春と吉田五十八」展(〜10/19)に合わせて、ふだんは公開されていない住居部分も見学できるということだったので、そちらにも足を運んでみた。しかしここは吉田五十八の建築の良さとは別に、というか別にできないから問題だと思うのだけど、もっと文化的環境というものを考えてもらいたい。隣に新しくできていた別館には唖然とさせられた。山口蓬春の絵を大切に思うなら、それが生み出された環境も大切に思うのが自然ではないだろうか。以下、ちょうど今日こちらに向かう電車の中で読んでいた本から。

例へば外國には名畫といふものがあるといふことでそれが日本に持つて來られてそれを見に人が集る。又それを見たからその名畫を見て來たことにもなるのだらうが名畫でも駄作でも繪といふのもただそれを自分の網膜に映すだけでその繪を見たことにならない。その前にその繪でなくても繪といふものに馴れなければならなくて更に嚴密にはこれは個人だけの話でなくてその個人が屬してゐる人間の集團がさういふ繪を愛好する傳統が出來てゐなければ個人の眼を周圍から訓練するといふ條件が缺けることになる。宗達の鳥が空を飛んでゐる繪を外國人が見てその繪で形が書いてあるのはその鳥だけだつたからそこを切り取つて持つて歸つたといふ話がその邊の事情を示してかういふ不用意も時間の流れの外に出ることの一種でそれをする人間はその時死んでゐる。或は少くともその時生きてゐるのはその人間の體だけである。

今日の海岸。