例の講義の初回「なぜ歴史を学ぶのか」のスケッチ
ヴァルター・グロピウス歴史教育の否定(詳細未確認)←19世紀建築への批判
●ルネ・デカルト方法序説」(1637)←スコラ哲学への批判
●ゼロから自分で考えることの大切さ
●「事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。」(E・H・カー『歴史とは何か』清水幾太郎訳、岩波新書、1962、p.8)
●例)日本の位置/事実1

●例)日本の位置/事実2

●「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」(同上p.40)
●「今、ここ」ではない場所を知ることの大切さ
●「われわれ英国人がある詩人をほめるとき、その詩人の作品のなかに他のどの詩人にも似ていないような面を見出してこれを強調しようとする傾向のあることがあげられる。[…]そこに個性的なもの、つまりその詩人の人間性に特有な本質があるものと思いこみ、この詩人がその先人たちと異なっている点を、とりわけそのすぐ前の時代の詩人たちと異なっている点を云々して満足し、なにかそれだけ切り離して味わえるものがないものかとやっきになって探そうとする。ところが、もしわれわれがこういう偏見をもたないで、ある詩人に接してゆこうとする場合には、その作品の最上の部分だけでなく、もっとも個性的な部分でさえも、実は彼の祖先たる過去の詩人たちの不滅性がもっとも力強く発揮されている部分だということを、しばしば発見することになるであろう。」(T・S・エリオット「伝統と個人の才能」深瀬基寛訳、『エリオット全集5』中央公論社、1971、p.6)
●「詩人というものはじぶんにとって必要なだけの受容力と怠け癖の妨げにならない限りでの知識はもつべきものだということをわれわれはどこまでも固執したいのだが、その知識というものを、ただ試験用、客間用、あるいはもっと間口をひろげてなにか世間向の公事に役立たせ得るものだけに限ってしまうなら、それは望ましいことではない。」(同上p.10)
●「建築家がまず直面するのは、相互に無関係に分離した無数の事物群、断片化した建築群という、きわめて都市的な現実であり、その与えられたばらばらに離散した事物間にいかに秩序を与えるかということが建築家の仕事であって、決して更地=白紙に還元された敷地上に自分の理念に従って、建築を一つの全体として、ゼロから立ち上げるなどということではなかった。」(岡﨑乾二郎『ルネサンス 経験の条件』筑摩書房、2001、p.68)
槇文彦「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」『JIA MAGAZINE』2013年8月号
●新国立競技場計画批判を建築家の社会的活動の歴史的文脈の中で考える/比較:大阪万博(1970)批判