例の講義の初回、「なぜ歴史を学ぶのか」ということに関しては、T・S・エリオットの「伝統と個人の才能」(1919)も紹介しておきたい。もしこのエッセイで書かれていることを実感をもって理解してもらえるなら、それだけで講義の責任を果たしたと思っていいような気さえする。日本語訳はいくつかあるようだけど、全集版(深瀬基寛訳)を使っておくのが無難なのだろうか。以前ブログで引用した際は、岩波文庫版(矢本貞幹訳)を用いていた(2010年5月1日)。そのときと同じ個所を引用してみる。

伝統には、なによりもまず、歴史的感覚ということが含まれる。これは二十五歳をすぎてなお詩人たらんとする人には、ほとんど欠くべからざるものといっていい感覚である。そしてこの歴史的感覚には、過去がすぎ去ったというばかりでなくそれが現在するということの知覚が含まれるのであり、またこの感覚をもつ人は、じぶんの世代を骨髄のなかに感ずるのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体が──またそのうちに含まれる自国の文学の全体が──ひとつの同時的存在をもち、ひとつの同時的な秩序を構成しているという感じをもって筆をとらざるをえなくなるのである。この歴史的感覚は、時間的なものばかりでなく超時間的なものに対する感覚であり、また時間的なものと超時間的なものとの同時的な感覚であって、これが作家を伝統的ならしめるものである。そしてこれは、同時にまた、時の流れのうちにおかれた作家の位置、つまりその作家自身の現代性というものをきわめて鋭敏に意識させるものでもあるのである。(p.7)
───T・S・エリオット「伝統と個人の才能」深瀬基寛訳、『エリオット全集5』中央公論社、1971

訳文の良し悪しはよく分からないけれど、ともかくここで言われている「歴史的感覚」は、過去の事物が時代や地域を超えて同時的に存在するという意味で、昨日引いた鈴木博之さんの歴史認識と重なりそうな気がする。
また以下の部分は、このまえ坂本先生とフィッシュマンズの共通点として書こうとした、「ただ単に新しくよりよいものをつくるということではなく、新たな創作を加えることで既存の世界がどういう状態になるか、についての意識」(2月13日)に通じると思う。

ひとつの新しい芸術作品が創造されると、それに先立つあらゆる芸術作品にも同時におこるようななにごとかが起る。現存のさまざまなすぐれた芸術作品は、それだけで相互にひとつの理想的な秩序を形成しているが、そのなかに新しい(真に新しい)作品が入ってくることにより、この秩序に、ある変更が加えられるのである。現存の秩序は、新しい作品が出てくるまえにすでにできあがっているわけであり、新しいものが加わったのちにもなお秩序が保たれているためには、現存の秩序の全体[2字傍点]がたとえわずかでも変えられなければならないのである。こうして個々の作品それぞれの全体に対する関係、釣合い、価値などが再調整されてくることになるのだが、これこそ古いものと新しいものとのあいだの順応ということなのである。この秩序の観念、ヨーロッパ文学の、ひいては英文学の、形態についてのこの観念を認める人ならばだれでも、現在が過去によって導かれるのと同様に、過去が現在によって変更されるということを、別に途方もないことだと思わないであろう。したがってこのことを知っている詩人なら、ひじょうな困難と責任とを感ずることになるであろう。(pp.7-8)

上で僕が書いている「重なりそうな気がする」や「通じると思う」は、ある程度の確信をともなっているつもりなのだけど、そのことを文章の自分の秩序のなかでまとめるならともかく、講義において、学生たちに教えるべきこととして、それなりに客観的に体裁を整えようとすると、途端に果てしなく困難な作業に思えてしまう。文章は自分がそれなりに納得して書ければそれでいいような気がする一方、講義の場合は、目の前にいる相手になんらかの影響を与えないと、その場で消えてなくなってしまうので、文章とは別のプレッシャーがかかる。