昨夜の演劇は『窓の観察』に寄稿していただいた著者の方と観ていたのだけど、終演後、椅子から立ち上がって振り返ると、『窓の観察』の別の著者の方がいた。去年のジュンク堂のイベントの日(2012年10月9日)以来の『窓の観察』のおふたり。折角なので中華街で一緒に食事をした。いま観た演劇の感想や恋の話に花を咲かせつつ、新国立競技場問題にも若干話題が及んだ。
新国立競技場の問題については、以前一度だけこのブログで触れたことがある(9月26日)。触れたというか、かすったくらいのものだけど、これ以外はネットでの署名なども含めて、公的なアクションはなにもしていない。基本的には馬鹿げた計画だと思っているので、メールで回ってきた署名の呼びかけくらいは応じようかと思ったけど、そこで賛同を訴える文に違和感があって、結局返信しないままにしてしまった。
一昨日のレクチャーでも話したけど、もし『建築と日常』がなんらかの力をもっているとしたら、それは一人の人間の日常の実感に根ざしているからだと思う。というか、それしか資本がない。そこだけに懸けている。だから逆に、日常の実感の範囲から外れることにはめっぽう弱い。震災でさえそうで、No.2では特集のテーマを建築の所有の問題にずらして、なんとか成り立たせられた。景観問題や建築の保存についても、本当に自分の内的な問題意識で関わったのは《代田の町家》くらいではないかという気がする(とくに関わったわけではないけど、No.1で短い文を書いた楳図かずお邸もそれなりに実感はあった)。
これは我ながら消極的な態度だと思う。ただその一方、世の中の多くの問題に対して、そのそれぞれに実感があるそれぞれの人が、きちんとその実感に根ざして行為・活動をすれば、世の中はそうは悪くならないのではないかという思いもある(もう既にかたちづくられている「今の世の中」では楽観的すぎる考えだろうけど)。それはこのまえ観た『ハンナ・アーレント』(12月4日)でテーマになっていた、一人一人が思考を持続する大切さにも繋がるかもしれない。そのような個人の集合による動的な均衡をもった社会こそ、ひとつの理想になりうる。
たとえば僕が日常の実感のなかで新国立競技場問題を捉えようとすると、どうしても問題は競技場よりオリンピック反対というところに行きつかざるをえない。そして現在の計画を問題視する人たちの具体的な主張を見ても、それらは資本主義や国民国家の制度を批判するものとして、その延長線上にはオリンピック反対が位置づけられるように思える。けれども競技場計画を批判する人たちの中で、オリンピックの開催自体に反対している人はあまりいないように見える。
オリンピックの開催をくつがえすのは大変で現実的ではないから、建築や都市の専門家としてとりあえずそこには目をつぶり、競技場だけを問題にするというプラグマティックな判断は納得しうるし、専門家としての責任感の現れとしても捉えられる。しかし実際には、そうした割り切った意識(社会の中での役割分担)に基づいて行動をするのではなく、より大きな日常的な問題に対して思考停止になっている人が少なくない気がする(より大きな日常的な問題とは、今きっとオリンピックでさえない)。

もし建築家を特筆大書するなら、理想主義者であるべきだと僕は思います。そういうことを言うとアナクロニックに聞こえるかもしれませんが、どこかで理想主義者にならないとメタ原理も出てこないし、自己と他者の間の境界に対する解決も出てこない。そういうことを言うと、確かにアナクロに聞こえるけれど聞こえてもいいと思う。そう言えるくらいに世界がむちゃくちゃになっているから、もう言ってもいいんだという気がしているわけです。[…]現代世界が一番めちゃくちゃなのは、あした戦争が始まっても不思議ではないところです。理想主義という場合、そこまで押さえている必要があり、それに反対する立場をとることを含んだ理想主義です。[…]今人間も社会もおかしくなっているわけで、その中で建築をつくることは、人類の能動的な活動に意味を与えることができるかどうかという瀬戸際まで来ているわけです。(多木浩二
───多木浩二・奥山信一・安田幸一・坂牛卓「建てるということ──多木浩二と若い建築家3人との対話」『建築技術』2003年2月号