神奈川芸術劇場で、チェルフィッチュ『地面と床』を観た。『新潮』の1月号に戯曲が掲載されていたので、観る前に読もうかどうしようか迷ったけど、結局読まずに行ったのはよかったかもしれない。作品の構造としては比較的シンプルで、あらかじめストーリーを把握しておかないとついていけなくなるということはなかった。
作品のテーマは、ここ最近の『わたしたちは無傷な別人であるのか?』(2010年2月15日)や『現在地』(2012年4月27日)の流れの中にあるものだと思う(『ゾウガメのソニックライフ』は観ていない)。インテリでリベラルでグローバルで個人主義の人と、知的・文化的レベルが低くてドメスティックで貧困層の人との対比*1。そして前者をやや批判的に描き、後者をやや擁護して描いているように見える。そうした設定の前提には、前者である自分が他者としての後者とどう向き合うか、という岡田さんの意識があると思う。自分自身としての前者とどう向き合うかという意識もあると思うけど*2
そういう流れの中で考えると、『地面と床』は前作の『現在地』よりも洗練されて強度が高いように感じた。大衆性が高いと言ってもよいかもしれない。ストレートに伝わってきたような気がする。ただ一方で、なぜこのテーマにとどまり続けるのか、(舞台を観ていても)よく分からなかった。社会性や日常性のあるテーマだと思うけど、そこにとどまり続けることに、公的な意義よりも私的なマニエリスムを感じた。極めて的確に抽象化された各キャラクター(およびそれらの関係)は、観客それぞれに、観客自身や親類や身近な人たちの姿を見いださせ、そうした的確な現状認識に共感させることはあっても、その先のなんらかの動きをうながす力をどれだけ持っているだろうか。「動きをうながす力」を目指したような作品が必ずしもよいとは思っていないけれど、それをあえて目指そうとするのが最近のチェルフィッチュではないのだろうか。
『現在地』を観たときのブログで次のように書いた。

『現在地』における様々なタイプの登場人物の抽出や組み合わせは、それ自体とても明晰で的を射ているにしても、その的確さが作品を分析的・説明的・批評的なあり方に位置づけ、少なくともフィクションのリアリティや凄味といったものからは遠ざけてしまったように感じられる。

この印象は多少弱まりつつも(つまりフィクションのリアリティや凄味が強まりつつも)、『地面と床』であらためて思い起こされた。『現在地』に引き続き、「どういう人に観られることを想定しているのか」という、どうでもよさそうな疑問がつきまとう。あるいは日本国内よりも海外公演において、より積極的な意味が浮かび上がってくる作品なのだろうか。
『現在地』よりも強度が上がったと感じたのは、構成がシンプルになったことと、音楽の力も大きいと思う。第5場の終盤、ふいに「あれ、俺泣くのかも」とこみ上げてきたのは(結局泣かなかったが)、物語の盛り上がりとともに音楽の盛り上がりがあったからだと思う。ただ、こみ上げてきたのと同時に、ここで泣くのはなんとなく悔しいなというか、音楽に感情を煽られているような感じもした。
『地面と床』で僕にとって最も印象が強かったのは、「地面」と「床」の対比よりも、(それと不可分であるにせよ)戦争の描写だった。芸術はいつの時代も戦争を描くものだろうけど、それがまさに今の問題としてのリアリティを持っていた。そう感じたのはもちろん、この演劇が作品として世に出されて以降の、ここ数週間から数ヶ月の日本の政治の動きの影響がある。しかしそのような社会的な状況をわずかに先取りするものとして芸術が存在するというのは、芸術のひとつの本質的なあり方ではないかと思う。自分が歴史的瞬間にいると感じる。ふと『建築と日常』で戦争特集をやってみようかと思ったから、その面で「動きをうながす力」はあったかもしれない。

*1:僕には生者と死者の対比よりも生者同士の対比のほうが強く感じられた。だからタイトルの『地面と床』は今ひとつぴんとこない。兄の妻が生きようとする意志は、土地に固定された床からさえ逃れたいというふうに見える。

*2:さらに言うと、おそらくチェルフィッチュの観客も前者もしくは前者に近い、ということは十分に想像できる。