タル・べーラ『ニーチェの馬』(2011)をDVDで観た。モノクロの詩情を湛えた映像というか、セリフも少なくて、僕はちょっと苦手な映画かなと思いながら観ていたのだけど、あるところでこれは道具の映画だと思い至ると、急に空間が色めき立ち始めた。ひとつの極限的な(それゆえに普遍的でもある)生活のなかで、石積みの家や馬屋や井戸にしても、手押し車や食器や衣服にしても、それぞれの物が強く有機的に位置づいている。ある物は先祖から受け継がれ、ある物は自分たちの手で作られ、自分たちで作れない物はよそから調達されてくる。別に映画のなかでそれがいちいち説明されるわけではないし、実際には少なからずフェイクではあるのだろうけど、画面からはそれぞれの物の来歴の確かさと存在の必然性が感じられた(あるいは生活の貧しさに比べて道具が若干豊かに描かれていて、だからそれが際立つのだろうか)。まさに〈生きられた家〉のコスモロジー(およびその崩壊過程)。