ご購読の参考までに、号外の「建築批評論年表[20世紀日本編]」から、いくつか建築批評をめぐる言葉を抜粋してみました(敬称略)。他にも盛り沢山、100年分です。

岡田信一郎「批評が社会と建築家との連鎖となり、両者相提携して進んだなら、建築の進歩は勢ひ其の促しに伴ふや明かで、今の日本は世人と建築家とが余りに没交渉過ぎて居る。」(「建築と評論」建築雑誌1910年4月号)
渡辺保忠「社会へ向ってなされる建築評論は、あくまで建築界の代弁者としての自覚にめざめた、現代建築の理解のための、最もproperな啓蒙的発言がなされなければならない。」(「不安感論争の社会的背景──文明批評の正しい確立を」建築文化1956年9月号)
針生一郎「政治・経済・技術から哲学・美学まで、つねに綜合的なヴィジョンが要求されるところに、建築が文明の土台、諸王の王たるゆえんがあるわけですが、逆にいうとこの綜合的なかまえが、床屋政談のようにキメの粗い、ローカルな性格を生んでいる一面もあるようです。」(「建築評論への不信」国際建築1965年2月号/針生一郎『現代美術のカルテ』現代書房、1965)
松村正恒「評論なり批評と言うものは、頭にコビリついて離れないようなもの、20年後に思い出して、あれは正論であったと、感服するようなものでありたい。」(「建築評論をどうみるか?(アンケート)」国際建築1965年12月号)
●宮脇檀「僕は昔から見ない建物を批評しない主義なのでこの企画、つまり前月号に載せられた建物を見て批評するという方針には反対である。」(「月評」新建築1971年1月号)
●馬場璋造「建築専門誌の記事は、解説、主張がほとんどで、批判・批評はその主たる役割ではない。作品批評や月評も、記録としての作品をよりよくするためのものであって、批判精神に則ったものではない。」(「建築専門誌はジャーナリズムではない」建築雑誌1977年11月号)
●林昌二「批評が育たないのはメディアがギョーカイ内で完結しているからで、本気で批評を志しても飯が食えないばかりか村八分になることは見え見えです。」(「批評なくギョーカイ栄えて」新建築1989年7月号)
布野修司「1年間紙面と年収に値する原稿料を何人かのすぐれた若い書き手に保証しさえすれば、建築批評のシーンはがらりと変わるであろう。」(「筆一本で食べることの難しさ」日経アーキテクチュア1996年11月4日号)

そして年表に記載し忘れたテキスト。

批評は立派に成り立つはずです。ただ建築の世界のなかのジャーゴンを振り回していては建築の批評にはなりません。戦後に限ってでもいいから、政治と経済と社会と建築の様相との対応、あるいは不対応の関係をきちんと研究する建築史家がいるなら、それが個々の建築が今現在どこにいるかを明確にする批評の出発点になるでしょう。建築は社会の大波を表現できるはずだと先程言いましたが、ひょっとすると、今われわれが歴史のどこにいるかを明らかにすることができるのは建築かもしれません。建築家が自分の建築を歴史の中の現在に向かって開こうとしているとしたら、建築批評はその大きなパースペクティヴを示す必要があるのではないでしょうか。
───多木浩二インタヴュー「建築の可能性に向けて」『GA JAPAN』05、1993.10