宮崎駿風立ちぬ』(2013)をTOHOシネマズスカラ座で観た。最初の夢のシーンから少年時代、関東大震災を経て会社に入社するくらいまでは引き込まれつつ観ていたけれど、終わってみるとどうも全体がぼんやりした印象。「この面白くなさは何なのだろうか、というのが第一印象」だという古谷さんがブログで書かれていることに共感するところが多い(前半、「二郎がメガネの男であるとすれば、菜穂子は風の女だと言える」の前あたりまで。あと『かぐや姫の物語』の予告編も)。

古谷さんは二郎の身体的な弱さを足がかりにして、物語を象徴論的に読んでいるけれど、二郎は確かに眼鏡をかけて体の線は細いとしても、子供のころにはいじめられている下級生を助けて、体の大きな上級生を投げ飛ばしてもいる(単に正義感が強いだけで、てっきりいじめっ子にやられるのかと思って見ていたら)。人物描写の意図が不明瞭なのは、古谷さんが指摘している「何故、二郎が助けるのが「菜穂子でない」必要があるのか」という部分なども同様で、そういったそれぞれの要素のどっちつかずの感じが、そのまま全体の曖昧さにつながっているように思えた。ところどころに挿入される二郎の夢のシーンにしても、それによって二郎の情熱や葛藤を表すというより、物語の流れを分断して、夢と現実のそれぞれの世界(およびその両者の関係)の緊張感を弱める方向に作用しているのではないだろうか。作品を曖昧にすることで観客各自の能動的で多様な解釈に開かれている、と受け取るのも無理があるように思う。
だから世間でわりと話題になっているように思っていた戦争への態度表明という点に関しても、正直なところ今ひとつ伝わってこなかった。避暑地でドイツ人が戦局を語ってみせたり、わけもなく特高が登場してきたりするのも、ほんの戦時風味の味付けのような印象がある。この映画を戦争という文脈でそれなりのリアリティをもって受け止めるためには、監督が戦争に対してどういう思いをもっているかとか、飛行機に対してどういう思いをもっているかとか、これが自身の最後の長編映画であるとかいう予備的な知識が必要とされるのではないだろうか。そしてそれは結局、各自が映画を観るまえと観たあとで、元いた場所から動かないでいるということに繋がるような気がする。